子を作る機械

漢の成帝といえば、かの趙飛燕姉妹を寵愛し乱行の限りを尽くし、しかも子供を作れなかった淫乱テディベアで種無しの皇帝、というイメージの人も多いだろう。

しかし、史書に残る成帝の姿はそのイメージを裏切る。

后聰慧、善史書、自為妃至即位、常寵於上、後宮希得進見。
(『漢書』成帝許皇后伝)

この「后」というのは成帝が皇太子だった時に妃(正妻)となり、皇帝になるとそのまま皇后に繰り上がった許皇后のこと。
成帝は彼女をたいそう寵愛し、後宮のほかの女性たちはお呼びがかかるのも珍しかったというのだ。おそるべき一途さである。

しかも、彼女は成帝の皇太子時代に男子を産み、皇帝になってからも女子を産んでいる。どちらも早死にしたようだが、彼女は成帝の後継ぎを産むという点でも後宮の女性たちを何歩もリードしていたのだ。


だが彼女はその後の天災の続発の理由に挙げられてしまう。
いわゆる「天人相関説」の時代である。政治や為政者の側に問題があり、天の調和が崩れて天災が起こる、という理論である。

上特復問(谷)永、永對曰「日食地震、皇后貴妾專寵所致」
(『漢書』谷永伝)

面白い事に、谷永なる者は天災の原因を「皇后の専寵」としている。
たとえ皇后であっても、皇帝の寵愛を独占するのは良くないというのだ。

実はこの話には裏がある。谷永は当時の大将軍王鳳とつながりがあるのだ。彼は大将軍王鳳の代弁者なのだと考えられる。

外戚の王鳳にとって、別の外戚の出である許皇后とその一族が勢力を増すのは都合が悪い。
まして、仮に許皇后が後継ぎを儲けたら、許皇后とその一族の地位は磐石になってしまい、逆に自分たちの一族の地位が危うくなる。
だから、王鳳は許皇后を叩くと共に、後継ぎ問題でも許皇后を妨害し自分の関係者に産ませる必要があった。

(王)章對曰「・・・又鳳知其小婦弟張美人已嘗適人、於禮不宜配御至尊、託以為宜子、內之後宮。・・・」
(『漢書』元后伝)

王鳳を弾劾した王章によれば、王鳳は「子供を産みやすい」ことを理由に、結婚歴のある縁戚の女性を後宮に入れたというのだ。
礼にそぐわないことをしてまで縁戚に後継ぎを産ませようという、ある意味では王鳳の焦りとも言えるほどの努力っぷりである。


成帝はおそらくこういった大将軍王鳳からの種々の精神的圧力にさらされていたのであろう。
成帝自身、王鳳の専権ぶりを苦々しく思っており、直言の士である京兆尹王章の進言に乗って王鳳を排除しようとしたことがあったが失敗した。
それ以降、おそらくは王鳳の圧力に耐えかねて許皇后と距離を置かざるを得なくなったのではないだろうか。


とはいえ王鳳が死去したあとも許皇后との距離は元に戻らず、成帝は趙飛燕に出会いこちらに入れあげるわけだが。