漢の昭帝非実子説3

http://d.hatena.ne.jp/T_S/20081231/1230657556の続き。
霍光について。

是時上年老、寵姬鉤弋趙祜礱有男、上心欲以為嗣、命大臣輔之、察群臣唯光任大重、可屬社稷。上乃使黃門畫者畫周公負成王朝諸侯以賜光。後元二年春、上游五柞宮、病篤。光涕泣問曰「如有不諱、誰當嗣者?」上曰「君未諭前畫意邪?立少子、君行周公之事」光頓首讓曰「臣不如金日磾」日磾亦曰「臣外國人、不如光」上以光為大司馬大將軍、日磾為車騎將軍、及太僕上官桀為左將軍、搜粟都尉桑弘羊為御史大夫、皆拜臥內。(『漢書』霍光伝)

霍光は武帝が死ぬまで長年侍中、奉車都尉を務めた、つまり武帝の側近。一度も過失が無く、大変信頼されたのだという。
ただ、その一方で侍中、奉車都尉より上の官に就くことは無かった。武帝が手放したくないくらい便利な人材だった、と好意的に解釈することもできようが、民を治めたり軍を率いたりした実績は皆無であり、官位の上でも特に高いわけでもない。
武帝は生前から劉弗陵を後継者にしてその摂政を彼にしようと考え、周公が幼い成王を背負う絵を彼に賜ったのだという。しかし、これは周囲の大臣や諸侯王らが認識していたことなのだろうか。
少なくとも、武帝死後の燕王の動向からは劉弗陵即位は武帝生前はあまり認識もされていなかったように感じられるのだが。
また、霍光については武帝じきじきの命があったとしても、上官桀や金日磾はどうなんだろうか。『漢書外戚伝、金日磾伝によると彼らもそれぞれ武帝の側近で信頼を受けていたいうのだが、それがいきなり大臣や諸侯王を差し置いてトップに躍り出るというのは、朝廷の序列的にどうなんだろうという問題は残る。
また、彼らはその命を「皆拜臥內」つまり武帝の寝室で直接受けたとされているが、一方で「上棄群臣、無語言、蓋主又不得見、甚可怪也」(『漢書』燕王旦伝)と、武帝の娘蓋長公主でさえも面会を許されなかったという情報もある。

ほとんどの者は会うことが出来ず、会うことが許された上記四人が揃って武帝に後事を託され一気に高官になった。そしてその四人は桑弘羊以外はそれほど高位の大臣ではないいわゆる側近。

よくよく状況を検討してみると、霍光たちの出世はあまりに胡散臭い。
病状不明で会うこともままならなかった武帝崩御するや「陛下は私らに後を託してこの子を即位させるようにと遺言しますた」と側近たちが言い出した。
この状況で、「はいわかりました」とその側近に何の疑問も抱かずにひれ伏すことができる人は、ある意味幸せだと思う。歩くたびに経験値が増えそうなくらい。