最初の益州刺史

魏咸熙元年、蜀破之明年也、以東郡袁邵為益州刺史、隴西太守安平牽弘為蜀郡、金城太守天水楊欣為犍為太守。 (『華陽国志』巻八、大同志) 蜀漢が滅んだ後、最初の益州刺史になったのが袁邵という者だったそうな。 異動の時に蜀人常忌が留任を直訴したという…

魏文帝評の評価

昨日の記事から考えると、陳寿は『三国志』の中で魏文帝曹丕を人徳に欠けた暴君として扱った、と言ってもいいのだろうと思う。 この陳寿評が晋の当時どう受け止められたのかは想像するしかないが、こういった証言があるのは参考になるのかもしれない。 夏侯…

ひとこと

ずっと以前の記事で、少なくとも前漢においては列侯は相続の際に領土を2割取られるらしいという話をしたことがある。 これ、後漢末や三国時代でも生きていたのか確認できないかな・・・。 司馬氏の継承とか。 あと、これは諸侯王や公には適用されたんだろう…

曹操と司馬氏の戸数

司馬懿は曹爽排除後に領土2万戸とされ、死ぬ直前には5万戸と郡公を与えられたとされているんだな。 郡公は辞退したとされるが。 司馬師は3万1千戸から9千戸の加増で4万戸とされている。 なんだか曹操の武平侯時代よりも多いようにも感じるが、復興によ…

ひとこと

(天紀)三年夏、郭馬反。・・・(中略)・・・晧又遣徐陵督陶濬將七千人從西道、命交州牧陶璜部伍所領及合浦・鬱林諸郡兵、當與東西軍共撃馬。 (『三国志』巻四十八、孫晧伝、天紀三年) 徵為執金吾。廣州部曲督郭馬等為亂、(孫)晧以(滕)脩宿有威惠、…

ふと思ったが

司馬懿の母や母の一族って素性分かってたんだっけ? 劉備の母なんかもまるで分からないから、分からないとしてもそこまで不思議ではないのだが、ちょっと気になる。 司馬懿の后張氏は母までわかっている(山氏)のが、ちょっと不思議な感じ。 それとも私が知…

誘い文句の真意

昨日の話の続きになる。 昨日の話だけでは、鄧艾は何というかただただクレイジー気味の人になってしまうが、それだけではないかもしれない。 そもそも、蜀漢を滅ぼすことになれば、おそらく司馬昭が皇帝になることになる。 そうなれば、琅邪王も曹氏からチェ…

お前も王にならないか?

よく考えたら、昨日までの「諸葛瞻を琅邪王にする」という話、この勧誘が行われた時点では司馬昭自身もまだ「晋公」だな。 蜀漢を征服すれば即座に司馬昭は晋王になるだろうという予測はできたにしろ、その時点においては事実上の主君司馬昭すらなっていない…

誘い文句

(景耀)六年冬、魏征西將軍鄧艾伐蜀、自陰平由景谷道旁入。(諸葛)瞻督諸軍至涪停住、前鋒破、退還、住緜竹。艾遣書誘瞻曰「若降者必表為琅邪王。」瞻怒、斬艾使。遂戰、大敗、臨陳死、時年三十七。衆皆離散、艾長驅至成都。 (『三国志』巻三十五、諸葛瞻…

呉と魏の間の晋

呉將晉宗叛歸魏、魏以宗為蘄春太守、去江數百里、數為寇害。(孫)權使(胡)綜與賀齊輕行掩襲、生虜得宗、加建武中郎將。 (『三国志』巻六十二、胡綜伝) 三国呉には「晋宗」という将がいて、魏に降った。 呉は晋宗を攻撃して生け捕りにした。 「晋」姓の…

襄陽を巡る二つの話

魏文帝即位、封河津亭侯、轉丞相長史。 會孫權帥兵西過、朝議以樊・襄陽無穀、不可以禦寇。時曹仁鎮襄陽、請召仁還宛。帝曰「孫權新破關羽、此其欲自結之時也、必不敢為患。襄陽水陸之衝,禦寇要害,不可棄也。」言竟不從。仁遂焚棄二城、權果不為寇、魏文悔…

東平の呂氏2

是時冀州統屬鎮北、而鎮北將軍呂昭才實仕進、本在(桓)範後。 (『三国志』巻九、曹爽伝注引『魏略』) 世語曰、(呂)昭字子展、東平人。長子巽、字長悌、為相國掾、有寵於司馬文王。次子安、字仲悌、與嵇康善、與康倶被誅。次子粹、字季悌、河南尹。粹子…

受け継がれるもの

昨日の記事の後に思ったのだが、赤壁の敗戦を極力隠し、一切言及しないままに領土返上という「引責」だけはやるというスタンス、司馬昭の時に皇帝高貴郷公を殺した事について実態を極力隠し、皇太后と口裏を合わせて皇帝としてふさわしくなかった者扱いしな…

感謝

昨日の記事の劉宝について、諸賢よりいくつか教えていただいた。 なるほど、司馬駿の下にいたり、王浚の前任者だったりした人で、字は「道真」つまり劉道真と。 西晋の人なわけだ。 やはり分からない事は素直に言ってみるものだ。 教えていただき、ありがと…

ひとこと

漢書駁議二卷。晉安北將軍劉寶撰。 (『隋書』巻三十三、経籍志二、史) この『漢書駁議』なる書の編者とされる「晋の安北将軍劉宝」って何者なんだろうか? 安北将軍ならもう少し何かの記録がありそうなものなんだが・・・。 それとも何か字の誤りでもある…

楊偉の出世

文章敍録曰、(杜)摯字徳魯。初上笳賦、署司徒軍謀吏。後舉孝廉、除郎中、轉補校書。摯與毌丘儉郷里相親、故為詩與儉、求仙人藥一丸、欲以感切儉求助也。其詩曰・・・(中略)・・・儉答曰「鳳鳥翔京邑、哀鳴有所思。才為聖世出、徳音何不怡!八子未遭遇、…

景初暦の創設者

明帝時、尚書郎楊偉制景初暦、施用至于晉・宋。古之為暦者、鄧平能修舊制新、劉洪始減四分、又定月行遲疾、 楊偉斟酌両端、以立多少之衷、因朔積分設差、以推合朔月蝕。 (『宋書』巻十二、律暦志中) 傅子百二十卷晉司隸校尉傅玄撰。默記三卷、呉大鴻臚張儼…

安国被り

漢の孝武帝の頃に孔子の子孫の孔安国という者がいたが、晋の孝武帝の頃にも孔安国という者がいたのか・・・。どっちも太守になっとる。 紛らわしくないか?命名考えろ晋の方の安国。 漢の方の安国は経書の注に名が残る超有名人だぞ・・・。

太子選びの基準

琅邪孝王裒字道成、母荀氏、以微賤入宮、元帝命虞妃養之。 裒初繼叔父長樂亭侯渾、後徙封宣城郡公、拜後將軍。 及帝為晉王、有司奏立太子、帝以裒有成人之量、過於明帝、從容謂王導曰「立子以徳不以年。」導曰「世子・宣城倶有朗儁之目、固當以年。」於是太…

ひとこと

後主こと劉禅は安楽県公で封邑は一万戸。 献帝こと劉協は山陽県公で封邑は一万戸。 山陽公は諸侯王より席次が上とされているから格上ではあるのだろうが、山陽公と安楽公って思ったより差が無いんだな。

劇県は劇県か否か

(永初元年九月)丁丑、詔曰「自今長吏被考竟未報、自非父母喪無故輒去職者、劇縣十歳・平縣五歳以上,乃得次用。」 (『後漢書』紀第五、孝安帝紀) 漢代、郡や県には統治の困難さに応じた等級があったらしく、大変な方を「劇県」「劇郡」と呼んでいたよう…

所管がえ

王脩字叔治、北海營陵人也。 (『三国志』巻十一、王修伝) 三国時代の王修の出身營陵県は北海郡であった。 王裒字偉元、城陽營陵人也。祖修、有名魏世。父儀、高亮雅直、為文帝司馬。 (『晋書』巻八十八、孝友伝、王裒) だがその孫の王裒は城陽郡の營陵県…

出身不明

董京字威輦、不知何郡人也。 初與隴西計吏倶至洛陽、被髮而行、逍遙吟詠、常宿白社中。時乞於市、得殘碎繒絮、結以自覆、全帛佳緜則不肯受。或見推排罵辱、曾無怒色。 (『晋書』巻九十四、隠逸伝、董京) 晋の董京なる者は、隠逸伝に記されるだけのことはあ…

王官

輒依鄧禹故事、承制拜禪行驃騎將軍、太子奉車・諸王駙馬都尉。蜀羣司各隨高下拝為王官、或領(鄧)艾官屬。以師纂領益州刺史、隴西太守牽弘等領蜀中諸郡。使於緜竹築臺以為京觀、用彰戰功。士卒死事者、皆與蜀兵同共埋藏。 艾深自矜伐、謂蜀士大夫曰「諸君頼…

反乱者逮捕

鄧艾・鍾會之伐蜀也、(衛)瓘以本官持節監艾・會軍事、行鎮西軍司、給兵千人。 蜀既平、艾輒承制封拝。會陰懷異志、因艾專擅、密與瓘倶奏其狀。詔使檻車徴之、會遣瓘先收艾。 會以瓘兵少、欲令艾殺瓘、因加艾罪。 瓘知欲危己、然不可得而距、乃夜至成都、檄…

郡王と県公

以為可封禪為扶風王、錫其資財、供其左右。郡有董卓塢、為之宮舍。爵其子為公侯、食郡内縣以顯歸命之寵。 (『三国志』巻二十八、鄧艾伝) 昨日の引用の一部だが、よくよく見ると凄い事が書かれている。 後漢皇帝献帝が譲位後に与えられたのが山陽公(県公)…

『三国志』に見えない人物

(陸)雲字士龍、六歲能屬文、性清正、有才理。少與兄機齊名、雖文章不及機、而持論過之、號曰「二陸」。 幼時呉尚書廣陵閔鴻見而奇之曰「此兒若非龍駒、當是鳳雛。」後舉雲賢良、時年十六。 (『晋書』巻五十四、陸雲伝) 薛兼字令長、丹楊人也。祖綜、仕呉…

河内の苟氏2

苟晞字道將、河内山陽人也。 少為司隸部從事、校尉石鑒深器之。東海王越為侍中、引為通事令史、累遷陽平太守。齊王冏輔政、晞參冏軍事、拝尚書右丞、轉左丞、廉察諸曹、八坐以下皆側目憚之。及冏誅、晞亦坐免。長沙王乂為驃騎將軍、以晞為從事中郎。惠帝征成…

荀か苟か

尚書僕射司馬宣王・常侍王象・荀緯請(楊)俊、叩頭流血、帝不許。 【注】 魏略曰、王象字羲伯。既為俊所知拔、果有才志。建安中、與同郡荀緯等倶為魏太子所禮待。 (『三国志』巻二十三、楊俊伝) 魏の文帝に殺されそうになった楊俊を司馬懿・王象と共に助…

格上げかもしれない

魏文帝黄初二年正月、詔以議郎孔羨為宗聖侯、邑百戸、奉孔子祀、令魯郡修舊廟、置百戸吏卒以守衛之。及武帝泰始三年十一月、改封宗聖侯孔震為奉聖亭侯。又詔太學及魯國、四時備三牲以祀孔子。 (『晋書』巻十九、礼志上、吉礼) かの孔子こと孔丘先生の子孫…