前漢

ひとこと

ふと思ったんだが、項羽が追い詰められた時に「四面楚歌」って言ってるけど、項羽ってもともと楚の大将の宋義を殺してるし、争った劉邦も所属は楚だったわけだし、主な敵が「楚」だった時期が長いよな。 最初からそこそこ「四面楚歌」だったんじゃないか?

ひとこと

漢の恵帝の命を助けた夏侯嬰が、漢の恵帝の子ということになっている少帝らを殺害するために宮殿から連れ出す役割を担った、という因果がエグくて好きなエピソード。

公と王

漢代、周王の子孫は「衛公」とされ、王莽の時に漢の皇帝(になるはずだった)孺子嬰は「定安公」とされた。 後漢皇帝劉協(献帝)が「山陽公」となったのはこれらの事例に即したものだったんだろうけれど、よくよく考えてみると、魏の皇帝が禅譲を受ける前は…

諸侯王の監視

曹魏の諸侯王の元には「監国使者(謁者)」という官が付いていて、どうやら皇帝直属で諸侯王を監視していたらしい。 前漢の初期の初期は基本全ての官を諸侯王が自ら任命し、その後は諸侯王の相(丞相)や傅あたりだけが勅任で、彼らが監視の任を負っていたよ…

藁の家

『史記』や『漢書』は本紀、表、志(書)、列伝を備え、巻末に編者とその華麗なる一族について記す「自序」を付した史書であった。 陳寿『三国志』や范曄『後漢書』は表や志が少なくとも残っておらず、「自序」も無かった。 それらに対し、いわゆる「正史」…

秦将になっていたかもしれない

項梁殺人、與(項)籍避仇於呉中。 (『史記』巻七、項羽本紀) 項羽の叔父項梁は人を殺し、仇を避けて呉へ逃げたのだ、という。 どんな理由や経緯かはわからないが、項梁は人を殺した割に秦からは追われていたわけではなく、私的な「仇」が追跡していたよう…

武皇帝

新たな王朝の号(王莽の「新」とか曹氏の「魏」とか)については、ほとんどの場合、その王朝の開祖が皇帝になる時点でなっていた諸侯の国号から取るのが通例であるようだ。 「漢王」劉邦が皇帝になると「漢」王朝となるし、「新都侯」王莽が皇帝になると「新…

運命を仕組まれた王家

衛公・宋公。 本注曰、建武二年、封周後姫常為周承休公、五年、封殷後孔安為殷紹嘉公。十三年、改常為衛公、安為宋公、以為漢賓、在三公上。 【注】 五經通義「二王之後不考功、有誅無絶。」 (『続漢書』志第二十八、百官志五) 漢は周王の末裔を「衛公」、…

諸行無常

『漢書』高恵高后文功臣表には元康4年の子孫に対する一斉徭役免除や、昨日の記事にあったような復興などの記録が見えるのだが、そこに載る子孫はもれなく爵位も掲載されている。 そのほとんどが二十等爵最下位の「公士」やら下から5番目の「大夫」やら、良…

功臣の復興

『漢書』高恵高后文功臣表の高祖の時の列侯の中で、哀帝・平帝の時に子孫が何らかの復興や下賜を受けた者を拾ってみた。 平陽懿侯曹參(二) 元壽二年五月甲子、侯本始以參玄孫之玄孫杜陵公士紹封、千戸、元始元年益滿二千戸。 清河定侯王吸(十四) 元壽二…

参照先不明

哀帝時繼絶世、乃封敬王(劉)澤玄孫之孫無終公士歸生為營陵侯、更始中為兵所殺。 (『漢書』巻三十五、劉沢伝) 右孝哀十三人。新成・新都・平陽・營陵・徳五人隨父、凡十八人。 (『漢書』巻十八、外戚恩沢侯表) 前漢の燕王劉沢は3代目がとんでもないイ…

漢の劉氏

惟宗室子、皆太祖高皇帝子孫及兄弟呉頃・楚元之後。 (『漢書』巻十二、平帝紀、元始五年) 前漢末の時点で、「宗室」(いわば皇室である)というと高祖劉邦かその兄劉仲または弟劉交の子孫のみであったとされる。 だが、劉氏にはどれでもない王として「燕王…

長い人生

『史記』秦始皇本紀の本文には、「孝明皇帝十七年十月十五日乙丑曰」から始まる、明らかに後漢明帝の時のことに言及している部分がある。 ということは、この部分については章帝以降の時代に書かれているとしか思えない(明帝の時なら諡号で書かれるはずがな…

晋皇帝の諡号

いろいろ考えてみると、漢の皇帝の諡号で一文字なのは初代「高皇帝」劉邦のみで、「孝」が付かないのは中興の祖と言うべき「光武」と「昭烈」のみ。 晋の皇帝の諡号、司馬懿・司馬師・司馬昭はいずれも「宣」「景」「文」一文字で、最初に即位した司馬炎も「…

皇帝の諡号(ひとこと)

漢の皇帝は初代劉邦と中興の祖以外は諡号をすべて「孝〇皇帝」で統一していたが、魏や晋では「武皇帝」などに「孝」などが付かず、一文字だけの諡号だったようだ。 しかし晋では「孝恵」「孝懐」「孝愍」「孝武」と諡号に「孝」が付く皇帝も混ざっているし、…

昭霊夫人

丞相(諸葛)亮上言「・・・(中略)・・・昔高皇帝追尊太上昭靈夫人為昭靈皇后、孝和皇帝改葬其母梁貴人、尊號曰恭懷皇后、孝愍皇帝亦改葬其母王夫人、尊號曰靈懷皇后。・・・(後略)・・・ (『三国志』巻三十四、二主妃子伝、先主甘皇后) 丞相臣(陳)…

チェンジ

前漢の皇帝は景帝・武帝・宣帝・成帝が皇后を廃位して取り替えている。 比較的在位年数が長かった皇帝は大体チェンジ経験者ということだ。 割とまじめな話として後宮の制度はどこかしらパネル式の指名制度っぽいところがあるようなので、長年通い詰めた皇帝…

自殺の理由

霍后立五年、廢處昭臺宮。後十二歳、徙雲林館、乃自殺、葬昆吾亭東。 (『漢書』巻九十七上、外戚伝上、孝宣霍皇后) 漢の宣帝の皇后霍氏(霍光の娘)は、霍氏の謀反によって一族が全滅すると廃位されて12年間幽閉生活の末に自殺したらしい。 12年間死な…

前漢儒者の量刑改正

(梁)統在朝廷、數陳便宜。以為法令既輕、下姦不勝、宜重刑罰、以遵舊典、乃上疏曰 臣竊見元・哀二帝輕殊死之刑以一百二十三事、手殺人者減死一等、自是以後、著為常準、故人輕犯法、吏易殺人。・・・(中略)・・・至哀・平繼體、而即位日淺、聽斷尚寡、丞…

旧徳

建武中、録舊徳臣、以(孫)寶孫伉為諸長。 (『漢書』巻七十七、孫宝伝) 前漢の孫宝の孫は、後漢初期に孫宝の「旧徳」によって官に取り立てられたらしい。 「旧徳」は、他の用例を見るとどうやら何か恩があったようなことを示すことが多いような気がする。…

成紀出身の有名人

帝王世記曰「庖犧氏生於成紀。」 (『続漢書』志第二十三、郡国志五、涼州、漢陽郡、成紀、注引『帝王世記』) あの李広・李陵や李徴(トラ)なんかの隴西(漢陽)成紀の李氏の本貫である、漢陽郡成紀県は、あの「庖犧」(伏犠)が生まれた地だとされている…

敦煌郡のなりたち

又遣浮沮將軍公孫賀出九原、匈河將軍趙破奴出令居、皆二千餘里、不見虜而還。 乃分武威・酒泉地置張掖・敦煌郡、徙民以實之。 (『漢書』巻六、武帝紀、元鼎六年秋) 河西の敦煌郡あたりは、なりたちからして漢の武帝が匈奴を下すか追い払うかしたところに民…

高陸と高陵

京兆郡。漢置。統縣九、戸四萬。 長安。杜陵。霸城。藍田。高陸。萬年、故櫟陽縣。新豐。陰般。鄭、周宣王弟鄭桓公邑。 (『晋書』巻十四、地理志上、雍州、京兆郡) 晋の頃、京兆郡に「高陸」という県があった。昨日の「高陸公主」の領土はここではなかろう…

ひとこと

t-s.hatenablog.com 以前の記事で謎の「黄帝調暦」なるものを奉じていたという張寿王なる者の話をしたことがある。 この女性天子がいたり暦の長さが二倍だったりするワンダラスな暦、どっかから出土するとかして全容が分かったりしないものだろうか。 どんな…

ひとこと

t-s.hatenablog.com これ書いた後に思ったが、「系統としては黄帝の末裔」「マジカル出生秘話を持つ」という点で、殷と周と漢(劉邦の母のマジカル懐妊)は共通してるんだな。 少なくとも漢代の人々は殷や周の建国神話に劉邦のそれを被せてるんだろうなあ。

部下の心境

於是項王乃欲東渡烏江。烏江亭長檥船待、謂項王曰「江東雖小、地方千里、衆數十萬人、亦足王也。願大王急渡。今獨臣有船、漢軍至、無以渡。」項王笑曰「天之亡我、我何渡為!且籍與江東子弟八千人渡江而西、今無一人還、縱江東父兄憐而王我、我何面目見之?…

三等分の花嫁

漢宣帝世、燕代之間有三男共取一婦、生四子。及其將分、妻子而不可均、乃致爭訟。廷尉范延壽斷之曰、此非人類、當以禽獣處之。禽獣從母不從父也、請戮三男子、以児還母。 宣帝嗟歎曰、事何必古。若此、則可謂當於理而猒人情也。 延壽蓋見人事而知用刑矣、未…

ひとこと

ずっと以前の記事で、少なくとも前漢においては列侯は相続の際に領土を2割取られるらしいという話をしたことがある。 これ、後漢末や三国時代でも生きていたのか確認できないかな・・・。 司馬氏の継承とか。 あと、これは諸侯王や公には適用されたんだろう…

人材登用

侯霸字君房、河南密人也。族父淵、以宦者有才辯、任職元帝時、佐石顯等領中書、號曰大常侍。成帝時、任霸為太子舍人。 (『後漢書』列伝第十六、侯覇伝) へえ、後漢初期の侯覇の族父の侯淵は元帝の時の宦官、石顕の部下だったのか。 『急就』を著したという…

血筋

元年四月乙巳、侯富元年。 三年、侯富以兄子戎為楚王反、富與家屬至長安北闕自歸、不能相教、上印綬。詔復王。後以平陸侯為楚王、更封富為紅侯。 (『史記』巻十九、恵景間侯者年表、休侯劉富) 休侯劉富は甥の楚王(劉戊)が反乱したときにみずから印綬を返…