中国史

項羽の計算

昨日の魏三分の話だけど、項羽が取る範囲と元の魏王である西魏王魏豹の間に、元は趙将という殷王司馬卬を挟んでいるの、なかなか計算された配置かもしれない。 魏豹が失地回復を図ろうと項羽を攻撃しようとしても、間に殷王司馬卬がいるから直接攻撃はしにく…

魏三分の計

項羽の時代(数年しかないが)、本の魏地は西魏王魏豹、殷王司馬卬に分割されたと『史記』秦楚之際月表は言っていたと思うが、これ実は項羽も魏地の一部を併合していて、魏は二分じゃなくて三分されていたんじゃないのか? 西魏王は後の河東郡あたり、殷王は…

ひとこと(項羽と魏)

昨日の記事の後に思ったが、項羽は魏王豹から梁の地を奪ったことで西楚の隣国である西魏王(魏王豹)の離反を招き、梁の地を支配しようとしたことで彭越に悩まされることになったんじゃないだろうか? 梁の地を巡って項羽は自ら足元の混乱を招いたんじゃない…

項生

丁寬字子襄、梁人也。初、梁項生從田何受易、時寬為項生從者、讀易精敏、材過項生、遂事何。 (『漢書』巻八十八、儒林伝) 前漢の梁に「項生」という儒者がいたそうな。 梁というと、かの項羽の本拠だった場所(自分の国「西楚」は梁を含んでいたらしい)。…

ひとこと

シルクロードの「楼蘭」、これが前漢時代の名である「鄯善」で呼ばれ続けてたら、知名度や注目度は全然違ってそうだな・・・。 なんとなく。

皇覧その後

『皇覧』って『隋書』経籍志では繆襲らの撰とされていて、『旧唐書』『新唐書』ではその存在が埋もれてしまい、まず宋の何承天によるものが出てくるようになっているんだな。 曹丕の名が出てこないのは直接の撰者ということにならないだろうからいいとしても…

本当の『益部耆旧伝』

そういえば『益部耆旧伝』、『隋書』経籍志ではどうなってるのかな・・・? 益部耆舊傳十四卷、陳長壽撰。 (『隋書』巻三十三、経籍志二、史、雑伝) あれ・・・?「陳寿」でも「陳術」でもないぞ・・・? どうやら、『益部耆旧伝』の本当の著者は「陳長寿…

一つの『益部耆旧伝』

昨日の「益部耆旧伝」だが・・・。 (陳)壽又撰古國志五十篇・益都耆舊傳十篇、餘文章傳於世。 (『晋書』巻八十二、陳寿伝) 実は『晋書』によると陳寿が著したというのは「益部」ではなく「益都」となっているようなので、そもそも昨日の記事にある「陳術…

二つの『益部耆旧伝』

『益部耆旧伝』というと、かの「陳寿」が著したことで有名。 時又有漢中陳術、字申伯、亦博學多聞、著釋問七篇、益部耆舊傳及志、位歴三郡太守。 (『三国志』巻四十二、李譔伝) だが、どうやら陳寿より先に漢中の人「陳術」が同名の『益部耆旧伝』を著して…

扶蘇と曹彰

其年七月、始皇帝至沙丘、病甚、令趙高為書賜公子扶蘇曰「以兵屬蒙恬、與喪會咸陽而葬。」書已封、未授使者、始皇崩。・・・(中略)・・・趙高因留所賜扶蘇璽書、而謂公子胡亥曰「上崩、無詔封王諸子而獨賜長子書。長子至、即立為皇帝。而子無尺寸之地、為…

孫呉独自路線

思ったんだが、孫呉は初代孫権時代に諸侯王を全然立てないだけじゃなくて、皇后も全然立てていない。 孫権が正式に皇后を立てたのは、死ぬ前年の潘氏が初めてではないか。 つまり、皇帝孫権の元では、諸侯王もいないし皇后もいない、という時期が割と長かっ…

二つの氏

劉向別録曰「齊使鄒衍過趙平原君、見公孫龍及其徒綦毋子之屬、論『白馬非馬』之辯、以問鄒子。 (『史記』巻七十六、平原君虞卿列伝注引劉向『別録』) 昨日の「綦毋」氏については、どうやら戦国時代に公孫竜子の弟子にもいたらしい。 割と古くからある氏だ…

匈奴の氏

國人有綦毋氏・勒氏、皆勇健、好反叛。武帝時、有騎督綦毋俔邪伐呉有功、遷赤沙都尉。 (『晋書』巻九十七、北狄伝、匈奴) 匈奴には「綦毋」氏という氏があって、武勇をもって知られていたという。 破得綦母卬・尹潘軍於無終・廣昌。 (『漢書』巻四十一、…

袁紹の希望

袁紹は官渡から撤退してから1年半ほどで死んでいる。 劉邦は滎陽・成皋から撤退してから1年半ほどで項羽を滅ぼしている。 こうして見ると、一度大敗したからといってもうおしまい、と断言できるようなものではないのだ、ということになるのだろう(無論、…

500年前の君から

昨日の話だが、呉の孫権は「だいたい500年だろ」と始皇帝の時の500年後を自分の時代と言い張り、東晋の人である孫盛は「どうかんがえてもこっちが500年だろ」と自分の時代と言い張る。 まあどっちもどっち感が無くもない。 あと、なんなら同じ呉で…

500年後の君へ

始秦時望氣者云「五百年後金陵有天子氣」、故始皇東遊以厭之、改其地曰秣陵、塹北山以絶其勢。 及孫權之稱號、自謂當之。 孫盛以為始皇逮于孫氏四百三十七載、考其暦數、猶為未及。元帝之渡江也、乃五百二十六年、真人之應在于此矣。 (『晋書』巻六、元帝紀…

ひとこと

『続漢書』五行志では「淫雨」や「大水」は乱や変事の前兆のように言われるのか。 大雨で遅くまで仕事から帰れなかった翌日にふと思うの巻。

ひとこと

昨今の世界情勢だったりこの国だったりの色々な話などを見聞きしていると、「近現代でもこんなんだから、古代や三国時代やらの中国なんかも、勢力ごとに主張がまるで違ったり、ある事件などが後から無かったことになったり、びっくりするほど美化されていた…

共和政体

於是國莫敢出言、三年、乃相與畔、襲厲王。厲王出奔於彘。 ・・・(中略)・・・ 召公・周公二相行政、號曰「共和 」。共和十四年、厲王死于彘。太子靜長於召公家、二相乃共立之為王、是為宣王。 【注】 索隠、共音如字。若汲冢紀年則云「共伯和干王位」。共…

李さん一家華麗な経歴(メモ)

いわゆる隴西成紀の李氏の系譜、いわゆる正史に収録される順番だと『北史』序伝、『晋書』涼武昭王李玄盛伝(李暠)、『新唐書』宗室世系表上という順番になるのかな? 細かく見ていったりはしてないが、だんだん変わっていってたりする部分とかあるんかな・…

ひとこと

ふと思ったんだが、項羽が追い詰められた時に「四面楚歌」って言ってるけど、項羽ってもともと楚の大将の宋義を殺してるし、争った劉邦も所属は楚だったわけだし、主な敵が「楚」だった時期が長いよな。 最初からそこそこ「四面楚歌」だったんじゃないか?

悪役皇后に殺されて猫に転生しました。悪役皇后は鼠に転生しましたが謝られてももう遅い。

至(蕭)良娣、罵曰「武氏狐媚、飜覆至此!我後為猫、使武氏為鼠、吾當扼其喉以報。」后聞、詔六宮毋畜猫。 (『新唐書』巻七十六、后妃伝上、高宗王皇后) 唐の皇帝高宗の寵姫のひとり蕭良娣は、武后の命によって捕らえられるというときに「私はネッコに転…

わけがわからないこと

『史記』で劉邦のことは「姓劉氏」と明記され、孔丘先生のことは「姓孔氏」と明記されている。 みんな大好き始皇帝さんは『史記』秦始皇本紀で「姓趙氏」と明記されてるし、秦本紀でも先祖について「姓趙氏」と書かれているはずなのに、なぜかあまり「趙政」…

ひとこと

色々考えていくと、王朝交代についてスタンダードと言える手順などが確立していたわけでもない後漢末において、殷周革命をトレースして放伐(後漢皇帝をぶっ●ろす)も視野に入れながら、太古の理想と王莽のプロトタイプしかなかった禅譲を改良して王朝交代の…

放伐も可

魏氏春秋曰、夏侯惇謂王曰「天下咸知漢祚已盡、異代方起。自古已來、能除民害為百姓所歸者、即民主也。今殿下即戎三十餘年、功徳著於黎庶、為天下所依歸、應天順民、復何疑哉!」王曰「『施于有政、是亦為政』。若天命在吾、吾為周文王矣。」 (『三国志』巻…

藁の家

『史記』や『漢書』は本紀、表、志(書)、列伝を備え、巻末に編者とその華麗なる一族について記す「自序」を付した史書であった。 陳寿『三国志』や范曄『後漢書』は表や志が少なくとも残っておらず、「自序」も無かった。 それらに対し、いわゆる「正史」…

『史記』の後継者

『史記』と『漢書』にはあって『後漢書』や『三国志』や『晋書』にはない。 しかし『宋書』にはあるもの。

秦将になっていたかもしれない

項梁殺人、與(項)籍避仇於呉中。 (『史記』巻七、項羽本紀) 項羽の叔父項梁は人を殺し、仇を避けて呉へ逃げたのだ、という。 どんな理由や経緯かはわからないが、項梁は人を殺した割に秦からは追われていたわけではなく、私的な「仇」が追跡していたよう…

提案

白起、項羽、曹操といった豪華メンバーが行ったことで知られる「降伏者の大量坑殺」のことを「坑殺(シズ)める」と呼ぶと、なんとなくそこまでエグイことじゃないんじゃないか・・・って気分になれそうな気がするのでオススメ。

ひとこと

魏や後晋に「出帝」と呼ばれる皇帝がいるが、これ諡号じゃなくて通称でいいのかな?