三国

ひとこと

魏の烈祖様の郭皇后はその後ずっと皇太后として三少帝廃立に関わってきた重要人物だが、皇后になったのは烈祖様が危篤になってからなので、数日くらいしか皇后じゃなかったはずなんだよな・・・。 こういう人物が皇帝を新たに選びまくってるの、すごい皮肉な…

劉協の孫

太子早卒、孫(劉)康立五十一年、晉太康六年薨。 (『後漢書』紀第九、孝献帝紀) 適孫桂氏郷侯(劉)康、嗣立為山陽公。 (『三国志』巻三、明帝紀、青龍二年、注引『献帝伝』) 献帝こと山陽公劉協が死ぬと孫の劉康が山陽公を継いでいるが、劉康はその時…

左将軍仲間

袁術、劉備、司馬睿は「左将軍を経験して皇帝になった」仲間。 左将軍は皇帝へのステップ説。

シュレジンガーの劉協

章武二年、追諡皇思夫人、遷葬於蜀、未至而先主殂隕。丞相(諸葛)亮上言「・・・(中略)・・・孝愍皇帝亦改葬其母王夫人、尊號曰靈懷皇后。今皇思夫人宜有尊號、以慰寒泉之思、輒與恭等案諡法、宜曰昭烈皇后。詩曰『穀則異室、死則同穴。』故昭烈皇后宜與…

2人の列侯

劉備即位の時に名前が出てくる「陽泉侯劉豹」「青衣侯向挙」って、県侯ってことのようだから爵位だけならこの時点の張飛や馬超よりも高いんだよな・・・。 多分、当時劉備の元にいた者の中では劉備を除くとほぼ最上位の爵位なのだろう。 いったい何時から劉…

王の呼び名

魏郡に封建されたら「魏王」なんだから、東郡に封建されたら「東王」、南郡に封建されたら「南王」になるのではないか。 どうやらなぜかそれは良くないとされているらしく実際にはそういう王はいないのだが。面白い感覚。

開陽侯

文帝即王位、遷鎮東將軍、進爵武安郷侯、都督青州諸軍事。及踐阼、進封開陽侯、徙封良成侯。 (『三国志』巻十八、臧霸伝) 初、太后弟(卞)秉、以功封都郷侯、黄初七年進封開陽侯、邑千二百戸、為昭烈將軍。 (『三国志』巻五、后妃伝、武宣卞皇后) 臧覇…

袁紹の評判

おそらくは孝廉茂才ではなく親族のコネ関連で郎になった袁紹は、孝廉茂才で郎になった連中に対して一種のアドバンテージを得ようとした行動が服喪の徹底だったんじゃないだろうか。 後漢では服喪の徹底が士人間の評価につながっているらしい例が散見されてい…

袁紹の経歴

王必や陸遜の例にあるように、後漢末から三国時代頃だと「孝廉や茂才になる」というのが一種のステータスだったらしいので、それを経由しなかったらしい袁紹はなかなか面白い存在だ。 縁故採用だったと思われるが、縁故だけでは出来なさそうな勢力を思ったよ…

ひとこと

三公とかが恩典として子を郎にしてもらう、というのが後漢にはあったらしい。 もしかして袁紹はこれで郎になったか?

若き袁紹

曹操、孫権、袁術、公孫瓚、陶謙といった連中は孝廉や茂才に挙げられたことを『三国志』で記しているんだな。 袁紹や劉表はその辺が書かれていない。 ただ劉表は党錮の禁が直撃したことが関係しているようなので別の問題だ。 袁紹については『三国志』袁紹伝…

孝廉の年齢

曹操は20歳で孝廉に挙げられたが、どうやら孫権はもっと若くして孝廉に挙げられてるようだな・・・。 もちろん状況が違いすぎるので単純な比較はできないことは言うまでもないが、この結果だけで見ると孫権スゲェってなる。 それとよくよく見たら袁紹って…

孝廉と茂才

孫權字仲謀。兄策既定諸郡、時權年十五、以為陽羨長。郡察孝廉、州舉茂才、行奉義校尉。 (『三国志』巻四十七、呉主伝) この「郡察孝廉、州舉茂才」ってよく考えたら面白くないか? 同時に孝廉と茂才に挙げられた? それとも孝廉に推挙され、それとは別の…

微言

劉備って伝の冒頭で「儒学学んでたけど不真面目でイッヌやウッマが好きでした」って書かれてるけど、これは漢王朝をある程度知っている人からすれば*1「中興の祖と言える漢の宣帝と似たような経歴じゃないか!」って思わせる内容なんだと思う。 明言せずとも…

郡独裁の実態について

昨日の話だけど、これって所管の各県内では実際には県丞や県尉が代行となってほとんどの事務を取り仕切っていたってことになると思うんだよな。 郡の仕事も任されたのだとしたら、本官である涿県でもそんな感じだったかもしれない。 つまり、多くが現地採用…

思い付き

曹嵩の妻としては皇后扱いされた「丁氏」がいるのだが、本来の正妻だったのかはよく考えたら不明だよな・・・。 曹操の実母なだけで当時の正妻は別にいた、みたいな話でもおかしくはないのでは・・・。 ただの思い付きだけど。

ひとこと

思えば、曹操の妻だった丁氏の近親は滅ぼされたのもあって記録が少なく、イマイチどういうヤツがいてどういう関係だったかわかりにくい。 となれば、曹操の妻だった劉夫人の近親もイマイチどういうヤツがいてどういう関係だったかわかりにくいのも当然と言え…

ひとこと

瑯邪の劉勲(征虜将軍)って、なんか妙に曹操の元で厚遇されてたみたいだなあ・・・。 降伏して列侯になったというならほかにも似たような者がいたわけだが、曹操と旧くからの知り合いだったというだけで「貴寵驕豪」とまで言われるものなんだろうか。 瑯邪…

魏武の兵書

『隋書』経籍志によると魏武こと曹操が記した兵書として「續孫子兵法二卷」「兵書接要十卷」「兵書略要九卷」「魏武帝兵法一卷」といったものが伝わっているのか。 注釈だけではなくて『孫子兵法』の二次創作続編も作ったらしい。 以前記事にした曹操自作兵…

ひとこと

麋竺、孫乾、簡雍、伊籍ってまあ「文官」って感じのイメージなんだろうが、劉備の元で全員「将軍」になってるんだよな・・・。その手の分類で言えば全員「武官」ってことじゃないか。

ひとこと(魏王と武郷侯)

昨日のような話からすると、陳寿自身としても、おそらくは当時(西晋)の風潮としても、三国時代の人物としては誰よりも諸葛亮を特別視するような傾向みたいなのがあったのかもなあ。 なにしろ「無力な皇帝をずっと立て続けつつ戦乱を収めようと戦い続けた。…

ひとこと

もしかして陳寿『三国志』本文内で陳寿自身の上奏を(おそらく)そのまま収録してるのって諸葛亮伝の「諸葛氏集目録」だけだったりする? 他にも同じような体裁のとこあったかな・・・?

ひとこと

ふと思っただけだし、特に何かの話題に繋げるとかの意図も無いんだが、蜀漢からすれば自分たちは「魏に討伐された」のではなく、「司馬氏(晋)という新興勢力に放伐された」、という印象になるのかなあ・・・とか思った。

何かあった未来

諸葛亮らの出身である琅邪というと泰山郡に近いので、諸葛亮たちが臧覇のように泰山諸将の一員となって徐州・青州に盤踞したりするみたいな、何かあった未来を想像。 人間離れした巨体と頭脳の諸葛亮、人間離れした見た目の諸葛瑾は山賊まがいの将としても目…

新たな諡法

漢王朝の初代皇帝劉邦は「高皇帝」という諡号を贈られたとされ、この「高」は従来の諡法になかった字なのだとか。 また、孫呉の初代皇帝孫権は「大皇帝」という諡号を贈られたとされ、この「大」もそれまでの諡法では見かけなかった字であるように思われる。…

皇后を殺したヤツの子孫なら皇太后を殺そうとしていても不思議ではない説

「魏の高貴郷公が皇太后を害そうとしたなんて完全にでっち上げだろ!皇太后とかを殺そうとするヤツなんているわけがない」みたいな反応を、皇后と皇子を実際に殺した高貴郷公の先祖曹操が完全に封殺する。 先祖に自分が仕える皇帝の皇后と皇子を実際に殺した…

『三国志』と『魏略』

昨日の話の後で思ったが、「儒林伝」や「酷吏伝」といった伝は立てない陳寿『三国志』も、「儒林伝」ではなく「儒宗伝」、「酷吏伝」ではなく「苛吏伝」と敢えてズラしてくる『魏略』も、前後のいわゆる正史などの形式からすると、どっちもなかなかに癖が強…

ひとこと

そうか、『三国志』は「儒林伝」みたいなのが無いから、昨日の董巴みたいな人物の事績がまるで記されてないんだな。 『魏略』には一応それらしいものがあったっぽいので、これは陳寿の編集態度なのかもしれない。

『三国志』に出てこない人物

大漢輿服志一卷。魏博士董巴撰。 (『隋書』巻三十三、経籍志二、史、儀注篇) 魏の博士董巴は『輿服志』を著していて、『後漢書』注などでしばしば引用されている。 おそらくこの書を司馬彪『続漢書』輿服志が大いに参考にしたのだと思う。 この董巴は『三…

兵法家の丞相

曹操は兵書の類を作った(『三国志』武帝紀注引『魏書』)とされ、一方で諸葛亮は「八陣図」を作ったとされる(『三国志』諸葛亮伝)。 だが陳寿『三国志』自体に記されるのは後者のみのようだ。 陳寿の生きた晋の頃は諸葛亮のそれの方が重要視されていたの…