2022-05-01から1ヶ月間の記事一覧

諸行無常

『漢書』高恵高后文功臣表には元康4年の子孫に対する一斉徭役免除や、昨日の記事にあったような復興などの記録が見えるのだが、そこに載る子孫はもれなく爵位も掲載されている。 そのほとんどが二十等爵最下位の「公士」やら下から5番目の「大夫」やら、良…

功臣の復興

『漢書』高恵高后文功臣表の高祖の時の列侯の中で、哀帝・平帝の時に子孫が何らかの復興や下賜を受けた者を拾ってみた。 平陽懿侯曹參(二) 元壽二年五月甲子、侯本始以參玄孫之玄孫杜陵公士紹封、千戸、元始元年益滿二千戸。 清河定侯王吸(十四) 元壽二…

参照先不明

哀帝時繼絶世、乃封敬王(劉)澤玄孫之孫無終公士歸生為營陵侯、更始中為兵所殺。 (『漢書』巻三十五、劉沢伝) 右孝哀十三人。新成・新都・平陽・營陵・徳五人隨父、凡十八人。 (『漢書』巻十八、外戚恩沢侯表) 前漢の燕王劉沢は3代目がとんでもないイ…

漢の劉氏

惟宗室子、皆太祖高皇帝子孫及兄弟呉頃・楚元之後。 (『漢書』巻十二、平帝紀、元始五年) 前漢末の時点で、「宗室」(いわば皇室である)というと高祖劉邦かその兄劉仲または弟劉交の子孫のみであったとされる。 だが、劉氏にはどれでもない王として「燕王…

本日は

本日は結構疲れてるというか何というか・・・。 また今度。暑かったり寒かったり安定しない気候で身体に悪い。

争いの種蒔く人

「長男を後継ぎと決めるが、その弟をことあるごとに寵愛して手柄立てさせようとまでしてる」というのは、もう完全に後継ぎ交代の流れだし、そのまま放置すれば確実に争いの種。国が割れても不思議じゃない。 「自分の後継ぎとした長男の子供のうち、庶子とし…

似た者同士

庶兄なのでイレギュラーが無かったら皇帝にはまずなれなかった、という点で曹叡こと烈祖様と孫晧は割と似たところがある。 暴君スタイルで王朝が滅ぶきっかけを作ったっぽいのも似ている。

提案

白起、項羽、曹操といった豪華メンバーが行ったことで知られる「降伏者の大量坑殺」のことを「坑殺(シズ)める」と呼ぶと、なんとなくそこまでエグイことじゃないんじゃないか・・・って気分になれそうな気がするのでオススメ。

孫晧と陸抗

孫晧とは何重もの婚姻や血縁の関係があって信頼厚く、彼の元で兵を預かり、反乱鎮圧など孫晧の治世を守り続けた陸抗。 こう考えると、陸抗ってのは、孫晧に早く退場してもらいたい呉の人間にとってはとてつもなく邪魔な存在だな。 あの時代に陸抗がどういう…

ひとこと

孫晧は自分の時代の王たちに兵を供給した、とされている。 しかし、孫晧自身の息子はまだ幼少の者が少なくなかったはずであり、王の代官(相)などが代わりに率いたのかもしれないが、本来期待したであろう「藩屏」としての役割はあまり期待できなかったので…

今日は

暑さのためかどうかわからないが、普段より疲れている。 よって今日はおしまい。また今度、生きていたらまた会おう!

長い人生

『史記』秦始皇本紀の本文には、「孝明皇帝十七年十月十五日乙丑曰」から始まる、明らかに後漢明帝の時のことに言及している部分がある。 ということは、この部分については章帝以降の時代に書かれているとしか思えない(明帝の時なら諡号で書かれるはずがな…

ひとこと

あれ?孫晧の実母の何姫(皇太后)、もしかして呉の降伏まで生きてたのか? 何か見落としてるかもしれないが。

孫晧の兄弟

呉歴曰(孫)和四子、晧・徳・謙・俊。孫休即位、封徳錢唐侯、謙永安侯、俊拜騎都尉。晧在武昌、呉興施但因民之不堪命、聚萬餘人、劫謙、將至秣陵、欲立之。未至三十里住、擇吉日、但遣使以謙命詔丁固・諸葛靚。靚即斬其使。但遂前到九里、固・靚出撃、大破…

ひとこと

孫晧の時の王たち、『三国志集解』で何か言ってないかと見てみたが、どうも特別何も書いてないっぽい・・・。 やっぱ、誰が王になったのか、よくわからないままか。 字が小さくて目が疲れるから全部見ていないかもしれんけど。

同じ4人か

呉録載(孫)休詔曰「人之有名、以相紀別、長為作字、憚其名耳。禮、名子欲令難犯易避、五十稱伯仲、古或一字。今人競作好名好字、又令相配、所行不副、此瞽字伯明者也、孤嘗哂之。或師友父兄所作、或自己為。師友尚可、父兄猶非、自為最不謙。孤今為四男作…

孫晧の王その2

(元興元年)十月、封(孫)休太子𩅦為豫章王、次子汝南王、次子梁王、次子陳王、立皇后滕氏。 (『三国志』巻四十八、三嗣主伝、孫晧) (甘露元年)秋七月、(孫)晧逼殺景后朱氏、亡不在正殿、於苑中小屋治喪、衆知其非疾病、莫不痛切。又送(孫)休四子…

パトラッシュ

なんだかとても眠いんだ・・・。

孫晧の王

建衡元年春正月、立子瑾為太子、及淮陽・東平王。 (『三国志』巻四十八、三嗣主伝、孫晧) (鳳凰二年)秋九月、改封淮陽為魯、東平為齊、又封陳留・章陵等九王、凡十一王、王給三千兵、大赦。 (『三国志』巻四十八、三嗣主伝、孫晧) (天紀)二年秋七月…

ひとこと

孫晧は陳留王を立てているのか。 名前だけのことではあるが、晋における陳留王=かつての魏帝の存在を否定していたわけか。

ひとこと

魏や後晋に「出帝」と呼ばれる皇帝がいるが、これ諡号じゃなくて通称でいいのかな?

陳留王と山陽公

封魏帝為陳留王、邑萬戸、居於鄴宮。 (『晋書』巻三、武帝紀、泰始元年十二月) 陳留國。漢置。統縣十、戸三萬。魏(晋?)武帝封。 (『晋書』巻十四、地理志上、兗州、陳留国) 晋の陳留王国はあの魏帝の血統の封建された地のはずだが、少なくとも魏帝曹…

降伏後の待遇

そういえば、呉の孫晧が晋に降伏した時に与えられた「帰命侯」は領土の戸数や封建された場所の記載がないので、決められた領土を持たない侯、つまり五等爵の侯ではなく名号侯じゃないかと思う。 また、少なくとも『三国志』やその注では死後に諡号を贈られた…

前王朝の諸侯王

黄初元年十一月癸酉、以河内之山陽邑萬戸奉漢帝為山陽公、行漢正朔、以天子之禮郊祭、上書不稱臣、京都有事于太廟、致胙。封公之四子為列侯。・・・(中略)・・・以漢諸侯王為崇徳侯、列侯為關中侯。 (『三国志』巻二、文帝紀、黄初元年十一月) 丁卯、遣…

ひとこと

そういえば魏の最後の皇帝陳留王は「元皇帝」という諡号を贈られたが、これ現代日本語的にも文字通り「元皇帝」だな。 それだけ。

気が付いたら陳留王

十二月壬戌、天祿永終、暦數在晉。詔羣公卿士具儀設壇于南郊、使使者奉皇帝璽綬冊、禪位于晉嗣王、如漢魏故事。甲子、使使者奉策。遂改次于金墉城、而終館于鄴、時年二十。 (『三国志』巻四、陳留王紀、咸熙二年) 『三国志』陳留王紀を読む限り、曹魏の最…

ひとこと

曹魏の皇帝の諡号には漢と違って「孝」が全員に付いていない。 漢では「孝」が付かないのは実質創業者である3人のみ、また諡号が一文字なのは正真正銘初代の高祖劉邦のみ。 曹魏における事実上の初代の「武皇帝」、皇帝として初代の「文皇帝」も、実は高祖…

魏呉皇帝の諡号

昨日の話から微妙に続くが、曹魏は「武皇帝」、「文皇帝」、「明皇帝」、「元皇帝」と皇帝の諡号は一文字で統一されていたようだ。 呉も「大皇帝」と「景皇帝」なので一文字統一だったと思われるが、実は孫和が「昭献皇帝」とされていた時期があったらしいの…

晋皇帝の諡号

いろいろ考えてみると、漢の皇帝の諡号で一文字なのは初代「高皇帝」劉邦のみで、「孝」が付かないのは中興の祖と言うべき「光武」と「昭烈」のみ。 晋の皇帝の諡号、司馬懿・司馬師・司馬昭はいずれも「宣」「景」「文」一文字で、最初に即位した司馬炎も「…

孫権と天子七廟

孫權不立七廟、以父堅嘗為長沙太守、長沙臨湘縣立堅廟而已。權既不親祠、直是依後漢奉南頓故事、使太守祠也。堅廟又見尊曰始祖廟、而不在京師。又以民人所發呉芮冢材為屋、未之前聞也。於建鄴立兄長沙桓王策廟於朱爵橋南。權疾、太子所禱、即策廟也。權卒、…