2022-04-01から1ヶ月間の記事一覧

皇帝の諡号(ひとこと)

漢の皇帝は初代劉邦と中興の祖以外は諡号をすべて「孝〇皇帝」で統一していたが、魏や晋では「武皇帝」などに「孝」などが付かず、一文字だけの諡号だったようだ。 しかし晋では「孝恵」「孝懐」「孝愍」「孝武」と諡号に「孝」が付く皇帝も混ざっているし、…

晋の皇后の諡号

簡文順王皇后諱簡姫、太原晉陽人也。・・・(中略)・・・咸安二年、孝武帝即位、追尊曰順皇后、合葬高平陵、追贈后父遐特進・光祿大夫、加散騎常侍。 (『晋書』巻三十二、后妃伝下、簡文順王皇后) 晋における皇后の諡号は、どうやら一文字だったようだ。 …

皇后の諡号

桓帝懿獻梁皇后諱女瑩、順烈皇后之女弟也。 (『後漢書』紀第十下、皇后紀下、桓帝懿献梁皇后) 後漢の皇后の諡号だが、皇帝より先に皇后が死去してしまった場合、夫である皇帝の諡号を使うわけにいかない(というかまだ諡号が決まっていない)ためか、夫で…

今日も

今日は今日とて諸事情により大変な眠気と疲労に蝕まれています。 何も考えられないような状態なので、また今度・・・。

お休み

月末が近づいてきたせいか、無性に疲れている。今日は休養。 生きていたらまたお会いしましょう。

蜀漢の皇后

論曰、漢世皇后無謚、皆因帝謚以為稱。雖呂氏專政、上官臨制、亦無殊號。中興、明帝始建光烈之稱、其後並以徳為配、至於賢愚優劣、混同一貫、故馬・竇二后倶稱徳焉。其餘唯帝之庶母及蕃王承統、以追尊之重、特為其號、如恭懷・孝崇之比是也。初平中、蔡邕始…

劉備の皇后

劉備の妻って甘氏は「昭烈皇后」、呉氏は「穆皇后」と諡を贈られているのか・・・? 劉禅の生母だからという事情の可能性が高いが、甘氏の方が一段上に扱われているような気がする。

昭霊夫人

丞相(諸葛)亮上言「・・・(中略)・・・昔高皇帝追尊太上昭靈夫人為昭靈皇后、孝和皇帝改葬其母梁貴人、尊號曰恭懷皇后、孝愍皇帝亦改葬其母王夫人、尊號曰靈懷皇后。・・・(後略)・・・ (『三国志』巻三十四、二主妃子伝、先主甘皇后) 丞相臣(陳)…

冷たい君主

初、討(袁)譚時、民亡椎冰、令不得降。頃之、亡民有詣門首者、公謂曰「聽汝則違令、殺汝則誅首、歸深自藏、無為吏所獲。」民垂泣而去、後竟捕得。 (『三国志』巻一、武帝紀) 前にも書いたことがあるかもしれんが、やはりこの話って曹操の慈悲深さではな…

献帝奪還計画

t-s.hatenablog.com この話だが、興平元年以前というと、また献帝は長安脱出もしていない頃だな。 となると、この時の陶謙・孔融らの計画というのは、「献帝を長安から連れ出す」か「長安から逃げ出した献帝を保護する」計画だった・・・ってコト?! これは…

今日は

少々お疲れなので、また今度にします。 ではまた。

献帝帰還計画

徐州牧陶謙・北海相孔融謀迎天子還洛陽、會曹操襲徐州而止。 (『後漢紀』孝献帝紀第二十七、興平元年四月) 興平元年の少し前、徐州牧陶謙・北海相孔融は献帝を洛陽に戻そうとしていた、と。 曹操や袁紹や袁術がいることを考えると現実味はどれだけかという…

ひとこと

そういえば下邳ってあの天子を名乗ったという闕宣が出た地だったり、王が長年不在のままだったり、劉備が曹操に対して反乱起こした土地だったり、陳珪・陳登の出身地だったりしてるんだなあ。 下邳自体がなんというか、こう「濃い」感じがする。

ひとこと

そういえば曹豹って下邳相ということは、例えば泰山太守だった応劭こと風俗通先生なんかと同じである。 過去の経歴も風俗通先生のように孝廉出身のエリートだった可能性もけっこうあるんじゃないか? 張飛と争うことになったのも、そういった経歴の違いもあ…

ひとこと

後漢末の下邳相で名前が残っているのが笮融と曹豹なのか。 人数が少ないのに濃いメンツだ。

ひとこと

詳しい人にはとっくにわかっているようなことなんだろうが、袁術、劉繇、孫策あたりの頃の揚州は、劉繇を支持したという薛礼や笮融が彭城相・下邳相という徐州の長吏を名乗っていたり、袁術が孫策の叔父呉景を徐州の広陵太守に任命したりと、かなり徐州へ重…

疲労

今日はなんだかいつもより疲労が激しい。また今度。

チェンジ

前漢の皇帝は景帝・武帝・宣帝・成帝が皇后を廃位して取り替えている。 比較的在位年数が長かった皇帝は大体チェンジ経験者ということだ。 割とまじめな話として後宮の制度はどこかしらパネル式の指名制度っぽいところがあるようなので、長年通い詰めた皇帝…

自殺の理由

霍后立五年、廢處昭臺宮。後十二歳、徙雲林館、乃自殺、葬昆吾亭東。 (『漢書』巻九十七上、外戚伝上、孝宣霍皇后) 漢の宣帝の皇后霍氏(霍光の娘)は、霍氏の謀反によって一族が全滅すると廃位されて12年間幽閉生活の末に自殺したらしい。 12年間死な…

献帝の嘆き

(曹)操追大怒、遂逼帝廢后、假為策曰「皇后壽、得由卑賤、登顯尊極、自處椒房、二紀于茲。既無任・姒徽音之美、又乏謹身養己之福、而陰懷妒害、苞藏禍心、弗可以承天命、奉祖宗。今使御史大夫郗慮持節策詔、其上皇后璽綬、退避中宮、遷于它館。嗚呼傷哉!…

皇后の出自

(曹)操追大怒、遂逼帝廢后、假為策曰「皇后壽、得由卑賤、登顯尊極、自處椒房、二紀于茲。・・・(後略)・・・ (『後漢書』紀第十下、皇后紀下、献帝伏皇后) 後漢献帝の伏皇后は列侯で公主の夫でもある伏完の娘だが、「卑賤」から皇后になったのだと言…

週末

週末になると疲れが出てくるので、今日は頭が回ってない。さよなら。

列侯ランキング

夷安侯(鄧)珍子康、少有操行。兄良襲封、無後、永初六年、紹封康為夷安侯。時諸紹封者皆食故國半租、康以皇太后戚屬、獨三分食二、以侍祠侯為越騎校尉。 【注】 漢官儀曰「諸侯功徳優盛、朝廷所敬者、位特進、在三公下。其次朝侯、在九卿下。其次侍祠侯。…

嵐を呼ぶ貴人

初、掖庭人鄧香妻宣生女猛、香卒、宣更適梁紀。梁紀者、(梁)冀妻壽之舅也。壽引進猛入掖庭、見幸、為貴人、冀因欲認猛為其女以自固、乃易猛姓為梁。時猛姉壻邴尊為議郎、冀恐尊沮敗宣意、乃結刺客於偃城、刺殺尊、而又欲殺宣。宣家在延熹里、與中常侍袁赦…

前漢儒者の量刑改正

(梁)統在朝廷、數陳便宜。以為法令既輕、下姦不勝、宜重刑罰、以遵舊典、乃上疏曰 臣竊見元・哀二帝輕殊死之刑以一百二十三事、手殺人者減死一等、自是以後、著為常準、故人輕犯法、吏易殺人。・・・(中略)・・・至哀・平繼體、而即位日淺、聽斷尚寡、丞…

改姓事情

昨日の梁貴人(鄧皇后)の話、最初桓帝は彼女を「薄氏」としていた。 これはまず間違いなく梁冀との関係をうかがわせる「梁氏」を名乗らせたくなかったからなのだと思うのだが、この時に最初から本来の姓である「鄧氏」に戻さないのは少々面白い。 少なくと…

鄧梁薄鄧

(韓)棱孫演、順帝時為丹陽太守、政有能名。桓帝時為司徒。大將軍梁冀被誅、演坐阿黨抵罪、以減死論、遣歸本郡。 【注】 華嶠書曰「梁皇后崩、梁貴人大幸、將立、大將軍冀欲分其寵、謀冒姓為貴人父、演陰許諾、及冀誅事發、演坐抵罪」也。 (『後漢書』列伝…

呉の中書

前漢末から後漢に「中書」は無かった。 曹魏において黄初年間に「中書」が復活しており、蜀漢では無いままだったようだ。 一方、呉では「中書令」が何人か存在しているので、そのあたりは後漢とは違う制度だったことが分かる。 呉ではいつどのような経緯で中…

シュレジンガーの皇帝

三月戊午朔、日有食之。 庚申、幸宛、帝不豫。 辛酉、令大將軍耿寶行太尉事、祠章陵園廟、告長沙・零陵太守、祠定王・節侯・鬱林府君。 乙丑、自宛還。 丁卯、幸葉、帝崩于乗輿、年三十二。 祕不敢宣、所在上食問起居如故。 庚午、還宮。 辛未夕、乃發喪。 …

新年度

4月もいろいろ大変です。 とりあえず今日は眠いです。 今週は1週間が長いな・・・。