2016-04-01から1ヶ月間の記事一覧

司馬親子の爵位

尋進號都督、統征東將軍胡遵・鎮東將軍諸葛誕伐呉、戰于東關。二軍敗績、坐失侯。 (『晋書』巻二、文帝紀) 十二月、呉大將軍諸葛恪拒戰、大破衆軍于東關。不利而還。 (『三国志』巻四、斉王芳紀、嘉平四年) 晋の文帝こと司馬昭は新城郷侯になっていたが…

さきほど

飲み会から帰ってきたところ。 ところで来月に長期間(10日位)留守にすることになりそう。 ブログも今回は普通に休むかも。

三国志はじめての官職:王(補足)

三国志の時代、「匈奴」「烏丸(烏桓)」「鮮卑」といった、中華の民から見ると異民族に当たる集団が辺境や内地に存在していた。 そんな異民族の中に、「王」や「侯」と呼ばれる者がいて、しかも漢王朝や魏王朝などに服属してもなお「王」と呼ばれ続けている…

三部司馬

昨日の「三部司馬」についてだが、某リア獣*1のブログで既に記事になっていたので紹介しておく。 三部司馬の条件 http://d.hatena.ne.jp/chincho/20160123/1453559306 これによると、「由基司馬」はかなり強い弓を引くことのできる猛者だけが選ばれるという…

猿は死を覚悟した

二衞始制前驅・由基・強弩為三部司馬、各置督史。 (『晋書』巻二十四、職官志) 晋の左右衛将軍は前駆司馬・由基司馬・強弩司馬の三部司馬を置いたという。 前駆と強弩については字面から大体の役割や装備が推察できるが、由基というのは何であったか。 師…

ひとこと

魏では鄴に将の人質を置いていたように思われるし、司馬懿が王たち(=曹操の子孫)を監禁状態にしたのも鄴だった。 当時の鄴には何か人質を保護しておくのに適した施設か環境があったのだろうか?それとも曹操が鄴を本拠とした頃の名残で特別な理由はないの…

魏の任子と司馬懿の怨み

http://d.hatena.ne.jp/T_S/20140630/1404054329 http://d.hatena.ne.jp/T_S/20140814/1407944346 昨日の楽安王についての話で、彼は人質であったのではないか、という推測を述べた。 これは、上記の過去記事にあるように、三国時代では各地の太守や臣従した…

わかったこと:楽安王

昨日の記事(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20160422/1461252696)のコメントにて、「楽安王」は司馬懿の孫のことではないか、とのご指摘をいただいた。 文帝九男、文明王皇后生武帝・齊獻王攸・城陽哀王兆・遼東悼惠王定國・廣漢殤王廣徳、其樂安平王鑒・燕王…

わからないこと:楽安王

奏使郭太后出居別宮、及遣樂安王使北詣鄴、又遣文欽令還淮南、皆(丁)謐之計。司馬宣王由是特深恨之。 (『三国志』巻九、曹爽伝注引『魏略』) 曹爽の腹心となった丁謐は、曹爽が郭太后を別の宮殿へ行かせたこと、楽安王を鄴へ行かせたこと、文欽を淮南へ…

とりあえず

昨日もイーグルス負けだと12回裏に入るまでずっと思ってた。

祖父に触れない

文士傳曰、(棗)祗本姓棘、先人避難、易為棗。孫據、字道彦、晉冀州刺史。據子嵩、字臺産、散騎常侍。並有才名、多所著述。嵩兄腆、字玄方、襄陽太守、亦有文采。 (『三国志』巻十六、任峻伝注引『文士伝』) 棗據字道彦、潁川長社人也。本姓棘、其先避仇…

郡名を使わない理由

南濮陽太守、本東郡、屬兗州。晉武帝咸寧二年、以封子允、以東不可為國名、東郡有濮陽縣、故曰濮陽國。濮陽、漢舊名也。允改封淮南、還曰東郡。 (『宋書』巻三十五、州郡志一) 漢代、「東郡」という郡があったのだが、晋の時にその郡を領国とする王を立て…

この件はなかったことに

癸卯、尚書奏請下有司、收還延光三年九月丁酉以皇太子為濟陰王詔書。奏可。 (『後漢書』紀第六、孝順帝紀、延光四年十二月) 後漢の順帝はもともと安帝の皇太子だったのだが、済陰王にされてしまった。つまり位を追われたのである。 その後、父の安帝が死ぬ…

買う漫画

『崖っぷち天使マジカルハンナちゃん』最終巻が出ていたか。 妙齢女子(控えめな表現)がある日魔法の力を持ってしまい服装だけ幼女向けな感じの魔法少女になってしまい・・・というお話の4コマ漫画であるが、回を追うごとに確実に状況が悪化するところと登…

水に助けられる男

魏氏春秋曰、帝將誅大將軍、詔有司復進位相國、加九錫。帝夜自將宂從僕射李昭・黄門從官焦伯等下陵雲臺、鎧仗授兵、欲因際會、遣使自出致討。會雨而卻。明日、遂見王經等出黄素詔於懐曰、「是可忍也、孰不可忍也!今當決行此事。」遂帝拔劍升輦、率殿中宿衛…

昨日

九州特に熊本では大変な地震に見舞われたらしい。 色々と被害等あることだろうが、それが最低限で済むことを祈るばかりである。 http://d.hatena.ne.jp/T_S/20110313/1299995929 http://d.hatena.ne.jp/T_S/20110313/1299996791 http://d.hatena.ne.jp/T_S/2…

眠い

今日は寝る。 しかし、もう新年度になってから2週間経っているのか・・・早いなあ。

宦官の父の葬儀

有宦者趙忠喪父、歸葬安平、僭為璵璠・玉匣・偶人。(朱)穆聞之、下郡案驗。吏畏其嚴明、遂發墓剖棺、陳尸出之、而收其家屬。帝聞大怒、徴穆詣廷尉、輸作左校。 (『後漢書』列伝第三十三、朱穆伝) 後漢の冀州刺史朱穆は厳格な人物であった。 ある時、宦官…

宦官の大邸宅

宦官得志、無所憚畏、並起第宅、擬則宮室。帝常登永安侯臺、宦官恐其望見居處、乃使中大人尚但諫曰「天子不當登高、登高則百姓虚散。」自是不敢復升臺榭。 (『後漢書』列伝第六十八、張譲伝) 後漢末霊帝の頃、張譲・趙忠らの宦官たちは増長し、宮殿にも匹…

趙忠のお墓

初平元年二月、葬弘農王於故中常侍趙忠成壙中、謚曰懐王。 (『後漢書』紀第十下、霊思何皇后紀) 後漢の霊帝の子である少帝劉弁は董卓らによって廃位され、弘農王に降格になった後に殺されたとされている。 そしてその墓としてはかつての中常侍趙忠の墓穴が…

趙忠の屋敷

秋七月甲子、車駕至洛陽、幸故中常侍趙忠宅。 (『後漢書』紀第九、孝献帝紀、建安元年) 後漢献帝は長安を出て最終的に洛陽に戻ると、かつての中常侍趙忠の邸宅だったところで寝泊まりしたらしい。 つまり、本来寝泊まりすべき宮殿がどれも破壊されていたた…

王栄

王美人、趙國人也。祖父苞、五官中郎將。美人豐姿色、聰敏有才明、能書會計、以良家子應法相選入掖庭。 (『後漢書』紀第十下、霊思何皇后紀) 后、邯鄲人。祖苞治尚書、為五官中郎將。父章襲苞業、居貧不仕。有子二人、男曰斌、女曰榮。榮則后也。后以選入…

献帝の侍中の子孫

辛亥、鎮東將軍曹操自領司隸校尉、録尚書事。 曹操殺侍中臺崇・尚書馮碩等。 封衛將軍董承為輔國將軍伏完等十三人為列侯、贈沮儁為弘農太守。 (『後漢書』紀第九、孝献帝紀、建安元年) 曹操が献帝を許県へ遷す直前のこと。 曹操は当時の侍中台崇と尚書馮碩…

楽しみにしているブログ

http://www.teraryu.net/ 元楽天ゴールデンイーグルスの選手、寺田龍平氏のブログ。 4年で戦力外となってしまった彼だが、その後なかなか興味深い人生を送ってきている(まだ二十代半ば)ようである。 まだ始めたばかりのブログだが、プロ野球選手になり、…

太子舎人の謎

本注曰、凡初即位、未有太子、官屬皆罷、唯舍人不省、領屬少府。 (『続漢書』志第二十七、百官志四) 昨日の記事の引用の最後に、こういう文があった。 皇太子の官吏は、皇太子が置かれていない時は任命されないのだが、太子舎人は任命されて少府に属するの…

三国志はじめての官職:皇太子

さて、皇帝の位は基本的には世襲制で継承されるのが中華帝国の常であった。 そして、皇帝を継ぐべき人物はあらかじめ決めておくのが普通であり、その後継者のことを「皇太子」と言った。 というか現代日本にもリアル皇太子がいるのだから、その辺はまあ説明…

元昌邑王、そう言う

大將軍光更尊立武帝曾孫、是為孝宣帝。 即位、心内忌(劉)賀、元康二年遣使者賜山陽太守張敞璽書曰「制詔山陽太守、其謹備盜賊、察往來過客。毋下所賜書!」敞於是條奏賀居處、著其廢亡之效、曰「臣敞地節三年五月視事、故昌邑王居故宮、奴婢在中者百八十三…

海昏侯、悔恨す

數年、揚州刺史柯奏、(劉)賀與故太守卒史孫萬世交通、萬世問賀「前見廢時、何不堅守毋出宮、斬大將軍、而聽人奪璽綬乎?」賀曰「然。失之。」萬世又以賀且王豫章、不久為列侯。賀曰「且然、非所宜言。」有司案驗、請逮捕。制曰「削戶三千。」後薨。 (『漢…

勝手にコラボ企画!はじめての「三国志の妖怪」

https://twitter.com/Jominian/status/715317791801278464 こんなことを言っている人がいたので確認してみたら、どうやらまさに今日発売らしい。 では、ここは私が「三国志における妖怪」をいくつか紹介するしかないだろう。

たまには

楚の戦略と反乱者の項羽 http://togetter.com/li/956793 最近呟いたことをまとめておいた。 このブログでは以前も述べたことがある件がほとんどだけど。 タイトルの通り、楚の懐王が描いた戦略と、それをぶっ潰した若者について。