公と王

漢代、周王の子孫は「衛公」とされ、王莽の時に漢の皇帝(になるはずだった)孺子嬰は「定安公」とされた。



後漢皇帝劉協(献帝)が「山陽公」となったのはこれらの事例に即したものだったんだろうけれど、よくよく考えてみると、魏の皇帝が禅譲を受ける前は「魏王」だったのに、皇帝が位を譲った後にそれより明らかに低い地位になるというのは、なんとなく冷遇と感じる人もいたんじゃないか、と思う。



ちなみに王莽の時は息子も当初は「王」にしていないので、「公」は最上位と言ってもいいだろう。


漢の時には異姓は「王」にしないという掟があったし、「公」が異姓では事実上の最上位である。



だが魏は少なくとも孫権を「王」にしたことがあるし、何より自分自身が即位前は異姓の「王」である。そういう掟に縛られないはずである。劉協を「王」にしたってよかったのではないか。




魏の時の反省を踏まえ、「ケチくせーなアイツ・・・」みたいに思われたくない、ということで司馬氏は魏皇帝を「陳留王」と漢の時より一段上にしてやったのだろうか?

諸侯王の監視

曹魏の諸侯王の元には「監国使者(謁者)」という官が付いていて、どうやら皇帝直属で諸侯王を監視していたらしい。



前漢の初期の初期は基本全ての官を諸侯王が自ら任命し、その後は諸侯王の相(丞相)や傅あたりだけが勅任で、彼らが監視の任を負っていたようだ。



またそれとは別に皇帝が派遣した監察官と言うべき存在として刺史がいて、太守とともに諸侯王の動向も監察していた。



それが曹魏になると、諸侯王を監視するためだけの監察官が新たに任命されたことになるわけで、諸侯王監視の役割がどんどん変遷していっているのが面白い。




漢代の諸侯王を疑い監視してきた流れが、曹魏において一旦完成した、とも言えるのかもしれない。とか言ってみる。

戯言

そういえば、「沛相袁忠」が「袁沛」と呼称されているという話をかつてしたことがあるが、その例でいくと「巴郡太守の劉●」は「劉巴」になるのでは?




後漢末の「劉巴」という名称のいくつかは字「子初」の人物ではなく、この名不明の「巴郡太守劉●」かもしれないのではないか・・・?

今にも落ちてきそうな電源の下で

今まさにパソコンのすぐ横で一番太ったネッコと一番小柄な三毛ネッコが臨戦状態になってるので、今日はここまでとする。


キーボードを踏まれたり電源ボタンを踏まれたりするので。

ひとこと

色々考えていくと、王朝交代についてスタンダードと言える手順などが確立していたわけでもない後漢末において、殷周革命をトレースして放伐後漢皇帝をぶっ●ろす)も視野に入れながら、太古の理想と王莽のプロトタイプしかなかった禅譲を改良して王朝交代の道筋を「開発」した曹操と臣下たち(完遂した曹丕も)は素直に大した功績だと思う。



後世の王朝交代では曹操が確立した禅譲メソッドのおかげで(それほどは)血を流さずに済むようになったし、比較的カジュアルに行えるようになったことで軍事力などのリソースを外部に向けやすくなった、と言えるのではなかろうか。




曹操は「中世簒奪の父」と称えていいと思う。