領土返上の裏側

何度か話題にしている建安十五年十二月己亥令だが、この中で言っていたように令の翌年である建安16年に息子たちが封建されている。


詳しくはここの記事を参照してもらえばいいと思う。


建安十六年、封平原侯。
十九年、徙封臨菑侯。
太祖征孫權、使植留守鄴、戒之曰「吾昔為頓邱令、年二十三。思此時所行、無悔於今。今汝年亦二十三矣、可不勉與!」植既以才見異、而丁儀・丁廙・楊脩等為之羽翼。太祖狐疑、幾為太子者數矣。而植任性而行、不自彫勵、飲酒不節。文帝御之以術、矯情自飾、宮人左右、並為之説、故遂定為嗣。
二十二年、增置邑五千、并前萬戸。
(『三国志』巻十九、陳思王植伝)

その一人、曹植の領地について、列伝をそのまま読むと「5,000戸増えて1万戸」なので、当初の戸数は5,000戸だったことになる。



平原侯から臨菑侯に移動したときに加増があった可能性も否定はできないが、そういった記述は無いので、大きくは変動していないと思ってもいいのではないだろうか。




この建安16年には曹植を含めて5人が封侯されていて、その筆頭曹植は5,000戸前後と思われる。



他の子はもっと少ないとは思うが、5人中最低3人は県侯であるし、5人合わせれば1万戸くらいにはなっていたのではないか?




そうなると、もし建安15年に曹操がちゃんと領土を返上していたとしても半分は息子の領地にキャッシュバックされていたことになるし、昨日書いたように本当は返上していなかったとしたら、ただ息子たちの分として1万戸が増えただけ、ということになる。



実のところ、赤壁の責任を取る体での領土返上が、言うほど返上じゃなかった、ひょっとすると返上どころか「息子の分貰います宣言」だったという可能性まであるということに・・・。

返上宣言と2万戸の行方

昨日の話の後、もう少し考えてみた。



よくよくあの建安十五年十二月己亥令について考えてみると、あれは「公」の「令」とされている。



つまり曹操による命令、布告ということになる。




だが、よくよく考えてみると、曹操の武平侯3万戸は形式上は皇帝から封建された建前であろう。だから返上も皇帝への上奏の形でなされるべきではないだろうか。



件の「令」は、「俺は3万戸のうち2万戸は返上することにした」という「宣言」ではあっても、皇帝に対して「私は2万戸をお返しします」という「手続」ではないのではないだろうか?



つまり、『三国志』注では曹操が2万戸返上を本当に皇帝に上奏したのか、それが許可されたのか、実は分からないのである。




そこで昨日つぶやいたように、曹操の武平侯の戸数に敏感な『後漢紀』でこのことは特に記載されていないという話を思い出すと・・・。





曹操の2万戸返上「宣言」、実際には上奏はしなかったのか、あるいは上奏が許可されなかったのか・・・。



もっとも、当時の皇帝の決裁は尚書令荀彧、録尚書曹操が関与したはずなのだから、「許可されなかった」だとしても、実際には荀彧や曹操が認めなかったようなものではないだろうか。つまりは自作自演だ。




ガス抜きに「ワイは2万戸を返上するやで!」と高らかに宣言はしたが、実際には返上の手続き自体していなかったか、あるいは自作自演的に「陛下がどうしてもと慰留して認めてもらえなかったやで」という形を作ったか。




実は、2万戸は返上されていなかった・・・?

ひとこと

『後漢紀』は曹操の武平侯の戸数の増加について割と詳しく書いている。



だが、建安15年については何も書かれておらず、曹操による2万戸返上の事が記録されていないようだ。




たまたまかもしれないし、何か意図や理由があるのかもしれないが、なかなか面白い話かもしれない。

計算外

是後、太祖拒袁紹於官渡、紹遣人招(張)繡、并與(賈)詡書結援。繡欲許之、詡顯於繡坐上謂紹使曰「歸謝袁本初、兄弟不能相容、而能容天下國士乎?」繡驚懼曰「何至於此!」竊謂詡曰「若此、當何歸?」詡曰「不如從曹公。」繡曰「袁彊曹弱、又與曹為讎、從之如何?」詡曰「此乃所以宜從也。夫曹公奉天子以令天下、其宜從一也。紹彊盛、我以少衆從之、必不以我為重。曹公衆弱、其得我必喜、其宜從二也。夫有霸王之志者、固將釋私怨、以明徳於四海、其宜從三也。願將軍無疑!」繡從之、率衆歸太祖。太祖見之喜、執詡手曰「使我信重於天下者子也。」表詡為執金吾、封都亭侯、遷冀州牧。
(『三国志』巻十、賈詡伝)


かの張繍賈詡は、強勢の袁紹ではなく弱小の曹操に従ったのだ、とされる。


(建安四年)九月、公還許、分兵守官渡。
冬十一月、張繡率衆降、封列侯。
十二月、公軍官渡。
袁術自敗於陳、稍困、袁譚青州遣迎之。術欲從下邳北過、公遣劉備・朱靈要之。會術病死。程昱・郭嘉聞公遣備、言於公曰「劉備不可縱。」公悔、追之不及。備之未東也、陰與董承等謀反、至下邳、遂殺徐州刺史車冑、舉兵屯沛。
(『三国志』巻一、武帝紀、建安四年)

張繍曹操に従った時期は、『三国志武帝紀を見る限りでは劉備曹操から離反するよりは前のように見える。



実際は同時に近かったのだとしても、張繍らは劉備袁紹に付いていない段階で曹操に付くことを決めたのではないかと思う。



劉備離反後に一気に曹操の旗色が悪くなったところから考えるに、張繍賈詡劉備離反という計算外に「ヤベェ間違えたかも」などと内心焦っていたのではないか、などと思わないでもない。

無力な皇帝

董承女為貴人、(曹)操誅承而求貴人殺之。帝以貴人有𡜟、累為請、不能得。
(『後漢書』紀第十下、皇后紀下、献帝伏皇后)


董承の娘は献帝の側室(貴人)であったが、董承らの曹操暗殺計画が発覚し董承が殺される時、曹操は一緒にこの董貴人も殺すつもりであった。



献帝は彼女が妊娠中であることを理由に曹操に嘆願したが叶わなかったという。



おそらく、単に助命嘆願したというよりは、せめて出産は待ってほしい、といった事だったのではないだろうか。


献帝にとって息子か娘であり、漢王朝にとって皇子か皇女であるのだから、嘆願は人としても皇帝としても当然である。いや、皇帝が臣下に嘆願しても聞き入れられないというのは当然の事ではないかもしれないが。




つまり曹操は妊娠中の女性をそのまま殺したという事になるのだろう。



しかもそれは献帝にとって後継ぎにだってなったかもしれない皇子の可能性もある胎児ごと、であった。




何より、本来の権限なら詔勅によって強制的に止める事だって不可能ではないはずの皇帝がどうしようもなかったということは、曹操献帝に完全に何もやらせず、独自の権力を全く認めなかったということになるのだろう。



皇帝が自分自身の子についてさえ何も救済できない(というか、臣下が全く何も考慮せずに殺害する)という、皇帝という存在が本来持っているはずの絶対性が相対化されていたのが、曹操の元での献帝だったのかもしれない。





でもこれ、次の王朝はこういう意識に長年晒された臣下たちに囲まれることになるんだな。大変でしょうね・・・。

ひとこと

曹操劉表を攻める段階では、孫権は基本敵対的ではなかったはずだし、遼東の公孫氏も益州劉璋も同様。



関中は司隷校尉の元小康状態ではあったと言えそうだし、涼州にしても州牧韋氏はある程度均衡を保っていたように思われる。



つまり曹操に明確に敵対していたと言えるのは劉表(と劉備)くらいだったわけで、劉表劉備を退治すれば、その時点で天下平定・統一と言っても過言ではなかったのではないか。




無論これには急に離反する者がいなければの話だが。





本当にあと一歩で天下統一まで来ていて、最後の敵を降伏させたかと思ったのに、終わってみれば敵が劉備孫権の2勢力に増えていたというのがあの段階の曹操だが、その後すぐに劉備孫権との再戦をできなかったというのは、敗戦のダメージが案外大きく、軍事的にも政治的にも結構ピンチだったということなんじゃないかと思う。




統一が数十年単位で遅くなったというのが割と誇張の無い話だと思うので、これで負けていないというのは少々無理筋かな、とも思う。