諸葛亮の秘めたる想い

待てよ、諸葛亮が昨日の記事で記したようなパワータイプの見た目と体格・体力だったとすれば、「敢えて軍服を着ずに軍を指揮していた」と言う話について、「単なる武辺者と思われたくなくて、敢えて軍人の格好を忌避していた」と考えられるな・・・。



巨体で晴耕雨読で鍛えた筋肉の持ち主が軍服を着ていたら、誰がどう見ても士大夫というより大武辺者だ。



しかし諸葛亮としては武人としてではなく、士大夫の将軍として扱ってほしい。



そうなると、敢えて軍服を着ないことでそういうアピールをしていた、ということではないか?





力こそパワー

諸葛亮は身長「八尺」、劉備は「七尺五寸」。



陳寿三国志』には関羽張飛の身長自体は載ってないように見えるので、劉備関羽張飛諸葛亮の身長は「諸葛亮劉備張飛関羽」みたいな感じだった可能性が普通にあるのだろう。



また劉備は基本的にかなり軍事的素養のある人物なので、実際に体格や腕力でも関羽張飛以上の筋肉魔法の使い手だったとしても何の不思議もない。



諸葛亮にしても、当時の士大夫的教養の一環として弓馬に慣れ親しんでいただろうし、実際戦場を渡り歩いた人物でもある(少なくとも蜀攻めでは実戦経験がある)。彼とて身長だけ高いうらなりではなく、筋骨隆々というタイプの可能性の方が高いだろう。




関羽張飛よりもずっとパワータイプな劉備諸葛亮、というのは新しくも案外『三国志』との齟齬は無いのである。



孔子こと孔丘先生のように、超パワータイプでしかも頭脳も優れていたから、魅かれる人が特に多かったのではなかろうか。


やはり暴力・・・暴力は全てを解決する・・・!



軍略家武王

是時、諸侯不期而會盟津者八百諸侯。諸侯皆曰「紂可伐矣。」武王曰「女未知天命、未可也。」乃還師歸。
居二年、聞紂昏亂暴虐滋甚、殺王子比干、囚箕子、太師疵・少師彊抱其樂器而犇周。
於是武王徧告諸侯曰「殷有重罪、不可以不畢伐。」乃遵文王、遂率戎車三百乗、虎賁三千人、甲士四萬五千人、以東伐紂。
(『史記』巻四、周本紀)

周の武王は約束も無いまま800もの諸侯が自分の元に集ってくるという状態ではあったが、それでも今は敵対する殷の紂王を討つ時ではない、として引き返した。


その2年後、紂が更に暴政を行って人心が離れているとして、武王は改めて殷を討伐する軍を興した。



これ、武王は敢えて紂王を放置して殷内部の混乱を待つという策略か・・・。




勝ち負けだけなら2年前の段階で勝てるとしても、より少ない被害で、より確実に勝つために、混乱が生じる可能性が高かった殷の混乱を敢えて待った、というところか。



中々の軍略。

司馬法

軍禮司馬法百五十五篇。
(『漢書』巻三十、芸文志、六芸略、礼)

凡兵書五十三家、七百九十篇、圖四十三卷。省十家二百七十一篇重、入蹵𠮑一家二十五篇、出司馬法百五十五篇入禮也。
(『漢書』巻三十、芸文志、兵書略)

へえ、『漢書』芸文志の分類では、『司馬法』は兵家ではなく「礼」の分類なのか・・・。



「軍法」ではなく「軍礼」なわけか。

ひとこと

漢で「都護」といえば西域都護であり、西域全体を「護」する存在なのだが、後漢末の曹操政権や蜀漢の「都護」「都護将軍」などは何を「護」する存在なのだろうか?


わかるようなわからないようなモヤモヤした感じ。