表と裏

建武)十一年、與中郎將來歙攻河池、未剋、以病引還、拝為左馮翊、將軍如故。
【注】
漢書曰「視事四年、人敬其威信。」
(『後漢書』列伝第八、蓋延伝)

後漢初期の功臣、怪力の蓋延。


彼は左馮翊として人々にその威信を敬服された、とされている。


華嶠書曰「蓋延代鮮于襃為馮翊、多非法。(第五)倫數切諫、延恨之、故滞不得舉。」
(『後漢書』列伝第三十一、第五倫伝)


後漢初期の功臣、怪力の蓋延。


彼は左馮翊として不法行為が多く、それを強く諫めた部下第五倫は蓋延に恨まれて出世できなかった、という。




まるで逆の話のように見えるが、威厳があって人々が畏怖したと解釈すれば、不法行為が多かった事や有能な人物を恨みで干した事も矛盾とまでは言えない、かもしれない。

時間よ、戻れ

以趙將漢王三年降、屬淮陰侯、定趙・齊・楚、以撃平城、侯、七百戸。
五 (高祖)八年十月癸丑、齊侯趙將夜元年。
(『史記』巻十八、高祖功臣侯者年表、深澤齊侯趙将夜)

深澤齊侯趙將夕
以趙將漢王三年降、屬淮陰侯、定趙・齊・楚、以撃平城功侯、七百戸。
(高祖)八年十月癸丑封、十二年、高后元年、有罪、免。二年、復封、二年薨。
(『漢書』巻十六、高恵高后文功臣表、深澤齊侯趙將夕)


もしかすると前にも書いたかもしれないが、まあいい。



漢の高祖の時の功臣の一人「深沢侯」は、『史記』では「趙将夜」で、『漢書』では「趙将夕」と記されている。



なんで『漢書』になると夜が夕になるのか。コイツは時間遡行者なのか?




受け継がれるもの

昨日の記事の後に思ったのだが、赤壁の敗戦を極力隠し、一切言及しないままに領土返上という「引責」だけはやるというスタンス、司馬昭の時に皇帝高貴郷公を殺した事について実態を極力隠し、皇太后と口裏を合わせて皇帝としてふさわしくなかった者扱いしながら、直接殺した成兄弟は下手人として処刑するというスタンスに似ていないだろうか?



他の二国や他の時代でどうであったかはまた別に分析する必要があるだろうが、少なくとも後漢曹操政権での隠蔽体質が高貴郷公事件の時にも引きずっていた、のではないだろうか。



結局司馬氏もその周辺の者も皆曹操政権下で働いたり育ったりした者たちなわけだし、こういう隠蔽にあまり否定的な感情を持たなかった(よくある事としか思わない)のでは。

俺が悪い

(建安八年)己酉、令曰「司馬法『將軍死綏』。故趙括之母、乞不坐括。是古之將者、軍破于外、而家受罪于内也。自命將征行、但賞功而不罰罪、非國典也。其令諸將出征、敗軍者抵罪、失利者免官爵。」
(『三国志』巻一、武帝紀)


魏の武帝曹操袁紹が死んだ後にこんな命令を出した。



「軍を敗北させたものは罪に当てる。利を失った者は官位や爵位を奪う」



(建安十三年)十二月、孫權為備攻合肥。公自江陵征(劉)備、至巴丘、遣張憙救合肥。權聞憙至、乃走。
公至赤壁、與備戰、不利。
於是大疫、吏士多死者、乃引軍還。備遂有荊州江南諸郡。
(『三国志』巻一、武帝紀)


数年後、よく知られるように曹操劉備に対して「利」を失った状態となり、明らかに敗北して撤退した。



建安8年の命令に照らしたら、曹操は官位や爵位を失うべきであろう。



魏武故事載公(建安十五年)十二月己亥令曰・・・(中略)・・・
然欲孤便爾委捐所典兵衆以還執事、歸就武平侯國、實不可也。何者?誠恐己離兵為人所禍也。既為子孫計、又己敗則國家傾危、是以不得慕虚名而處實禍、此所不得為也。
前朝恩封三子為侯、固辭不受、今更欲受之、非欲復以為榮、欲以為外援、為萬安計。
孤聞介推之避晉封、申胥之逃楚賞、未嘗不舍書而歎、有以自省也。
奉國威靈、仗鉞征伐、推弱以克彊、處小而禽大、意之所圖、動無違事、心之所慮、何向不濟、遂蕩平天下、不辱主命、可謂天助漢室、非人力也。然封兼四縣、食戸三萬、何徳堪之!江湖未靜、不可讓位、至于邑土、可得而辭。今上還陽夏・柘・苦三縣戸二萬、但食武平萬戸、且以分損謗議、少減孤之責也。」
(『三国志』巻一、武帝紀、注引『魏武故事』)

建安15年になって曹操は「天下を平定して天子の命を辱めたりしていないが、4県もの領土を持つのは恐れ多い。まだ江南が静まっていないから地位を退く事は出来ないが、領土は返上したい」と言い出している。



これは、「自分たちの威信のため、あくまでも劉備孫権に負けていないというスタンスを堅持したい」が、「負けたとしか見えないのに全く自分の負けを認めなければ、ただ自分が罰を受けたくないのだと思われる」というのも避けたい、という二律背反的な二つの欲求をなんとか両立するための折衷案なのだろう。



負けは認めない(劉備孫権に勝てていない事は言及しない)が、領土の返上という「失利者免官爵」に当たる事を自ら申し出る事で、「自分の敗戦の責任は取る」という態度は示す、とうところか。




同じ漢の丞相でも、はっきりと敗戦を明言し「俺が悪い」と言い切って官位の方を下げた者とは鮮やかな対比となっていると言えないこともない*1

*1:無論、それぞれの丞相の置かれた立場は違うので、本人の往生際や人格のみで語る事ではない。

思いつき

後漢末の元号「建安」が長々と続いたの、皇帝の意思により改元すべきところを皇帝の意思の発露がほとんど許されない状況に置かれたために改元も出来なくなった、みたいな事だったりしないだろうか?



それなら、偉大に過ぎてほとんど皇帝と会ってなかったらしい丞相が死んだ途端に改元した事の説明はつく。