一人会社

私は会社の事など大して詳しくも無いが、取締役を一人しか置いていない株式会社で、その取締役が突如死亡すると、その後に会社を存続させる手続きは割と大変なものであるらしい。特に株式が既に分散している場合とか。




これ、「皇太后外戚といった「皇帝に万一の事があった時に代わりを務めうる存在」を全て封じた王朝」なのではなかろうか。




つまり曹魏は一人会社(適当)。

連座拒否宣言

天紀元年夏、夏口督孫慎出江夏・汝南、燒略居民。
初、騶子張俶多所譖白、累遷為司直中郎將、封侯、甚見寵愛。是歳姦情發聞、伏誅。
【注】
江表傳曰、俶父、會稽山陰縣卒也、知俶不良、上表云「若用俶為司直、有罪乞不從坐。」(孫)晧許之。俶表立彈曲二十人、專糾司不法、於是愛惡相攻、互相謗告。彈曲承言、收繫囹圄、聽訟失理、獄以賄成。人民窮困、無所措手足。俶奢淫無厭、取小妻三十餘人、擅殺無辜、衆姦並發、父子倶見車裂。
(『三国志』巻四十八、孫晧伝)

三国呉の孫晧の時の張俶と言う者はでっち上げで監察官になったが、その時に父は「息子を監察官にするなら、罪があっても連座しないよう願います」と申し出たそうだ。つまりロクデナシだから監察官にするなと警告したのだから、監察官にしてアカン事になっても自分には責任が無い、という事だ。



魏(晋)の鍾会こと小畜生も兄は「アイツヤバい」と前から司馬昭に言っていたので親族への処罰が軽減されたという。同じような方向の話である。




この時も孫晧は父の申し出を許した。



しかし、実際に張俶の数々の悪事が発覚した時、孫晧は親子ともども殺してしまった。




流石の孫晧クオリティという感じ。

岑昬の先祖

岑氏出自姫姓。周文王異母弟耀子渠、武王封為岑子、其地梁國北岑亭是也。子孫因以為氏、世居南陽棘陽。後漢有征南大將軍・舞陽壯侯岑彭、字君然。生屯騎校尉・細陽侯遵。遵曾孫像、南郡太守。生晊、字公孝、黨錮難起、逃于江夏山中、徙居呉郡。生亮伯、亮伯生軻、呉會稽・鄱陽太守。六子、寵・・安・頌・廣・晏。後徙鹽官。十世孫善方。
(『新唐書』巻七十二中、宰相世系表二中、岑氏)

あれ?この『新唐書』宰相世系表にある「岑氏」の「昏」って、呉の尚書岑昬では?



つまり呉の尚書岑昬は後漢の功臣岑彭の子孫ということになっているのか。

(天紀四年)三月丙寅、殿中親近數百人叩頭請晧殺岑昬、(孫)晧惶憒從之。
(『三国志』巻四十八、孫晧伝)

呉に逃げた理由

項梁殺人、與籍避仇於呉中。
(『史記』巻七、項羽本紀)

よく見ると、項羽の叔父項梁が呉に逃げていた理由ってのは「人を殺してその仇討から逃れるため」となってるな。




秦(官憲)に追われていたわけではなかったんだな。



おそらくは何らかの私的な理由の殺人で、私的に仇討しようとする者たちから逃げていたんだ。




ちょっと意外だった。

死刑の増減

(梁)統在朝廷、數陳便宜。以為法令既輕、下姦不勝、宜重刑罰、以遵舊典、乃上疏曰、臣竊見元・哀二帝輕殊死之刑以一百二十三事、手殺人者減死一等、自是以後、著為常準、故人輕犯法、吏易殺人。・・・(後略)・・・
事下三公・廷尉。議者以為隆刑峻法、非明王急務、施行日久、豈一朝所釐。統今所定、不宜開可。
【注】
東觀記曰「元帝初元五年、輕殊死刑三十四事、哀帝建平元年、輕殊死刑八十一事、其四十二事手殺人者減死一等。」
(『後漢書』列伝第二十四、梁統伝)


後漢の梁統によれば前漢元帝哀帝は、従来は死刑としていた犯罪の罰を一部軽減していたのだという。





初元5年は元帝のブレーンのような存在になっていた儒者貢禹が御史大夫になった年であり、建平元年は儒者孔光(ご存知孔丘先生の子孫)が丞相であった年である。


おそらくは儒者が主導した人道上の配慮による刑罰の緩和策だったのだろうが、それが治安の悪化を招いていると考えて厳罰化を望む者もいたようだ。

竇融の従祖父

(竇)融見更始新立、東方尚擾、不欲出關、而高祖父嘗為張掖太守、從祖父為護羌校尉、從弟亦為武威太守、累世在河西、知其土俗、獨謂兄弟曰「天下安危未可知、河西殷富、帯河為固、張掖屬國精兵萬騎、一旦緩急、杜絶河津、足以自守、此遺種處也。」兄弟皆然之。
(『後漢書』列伝第十三、竇融伝)


王莽が滅んだ頃、竇融は「高祖父は張掖太守、従祖父は護羌校尉、従弟は武威太守になっており、代々河西にいて習俗を知っている」という事から自立を考えたという。


是歳、西羌龐恬・傅幡等怨(王)莽奪其地作西海郡、反攻西海太守程永、永奔走。莽誅永、遣護羌校尉竇況撃之。
(居攝)二年春、竇況等擊破西羌。
(『漢書』巻九十九上、王莽伝上)


このうち護羌校尉になったという従祖父とは、王莽簒奪前に護羌校尉となって西羌の反乱(王莽が引き起こしたとされている)を破った竇況の事だろうか。



竇況も竇融も王莽とは割と近い立場にいた(竇融の妹は王莽の幹部王邑の妻)ようなので、王莽が破れるまでは竇氏は王莽シンパとして忠実に働く武将という事だったのかもしれない。