皇后史氏

三月辛巳朔、平林・新巿・下江兵將王常・朱鮪等共立聖公為帝、改年為更始元年、拝置百官。(王)莽聞之愈恐。欲外視自安、乃染其須髮、進所徴天下淑女杜陵史氏女為皇后、聘黄金三萬斤、車馬奴婢雜帛珍寶以巨萬計。
(『漢書』巻九十九下、王莽伝下)

先日の史氏の話で思い出したが、王莽が最後に皇后にした史氏は件の魯の史氏の子孫なんだろうなあ。


史丹字君仲、魯國人也、徙杜陵。
(『漢書』巻八十二、史丹伝)

宣帝の外戚史丹は杜陵に移住したと明記されているし、杜陵(宣帝陵)に移住するのは宣帝時代の高級官僚や豪族という事になるので、宣帝時代の有名な史氏という事になる。



この「魯の史氏」を皇后に迎える理由は、この危機的状況で協力してくれたからというだけなのか、史氏に何かイメージ向上を期待できる何かがあったのか、よくわからないが。

魯王の外戚史氏

平臺
史子叔。以宣帝大母家封為侯、二千五百戸。衛太子時、史氏内一女於太子、嫁一女魯王、今見魯王亦史氏外孫也。外家有親、以故貴、數得賞賜。
(『史記』巻二十、建元以来侯者年表)

かの宣帝の祖母史氏の一族史玄らは宣帝即位後に列侯となった。



史記』建元以来侯者年表によれば、史氏は宣帝の祖父戻太子(衛太子)に嫁いだが、魯王に嫁いだ史氏の娘もおり、どうやら魯王の後継ぎをこの史氏が産んだらしい。




つまりこの史氏は魯王の外戚であり、史氏の出身地魯国においては大族であったのではないかと考えられそうだ。




幼少時を牢獄で過ごした宣帝が牢を出た後は史氏に引き取られるのだが、魯王の外戚でもある史氏はそれなりの財力や影響力を持った家という事のようだ。

韓信の子孫、二つの系統

(韓)嫣弟説、以校尉撃匈奴、封龍頟侯。後坐酎金失侯、復以待詔為横海將軍、撃破東越、封按道侯。太初中、為游撃將軍屯五原外列城、還為光祿勳、掘蠱太子宮、為太子所殺。子興嗣、坐巫蠱誅。上曰、「游撃將軍死事、無論坐者。」乃復封興弟增為龍頟侯。
(『漢書』巻三十三、韓王信伝)

かの韓信(韓王信)の子孫である韓説は「龍頟侯」になるがその地位を失い、その後に今度は「按道侯」になった。


韓説が殺されて子の韓興が「按道侯」を継いだが、韓興も誅殺された。



しかし罪を許されて韓説の子、韓興の弟である韓増が「龍頟侯」となった。





・・・韓増が韓説・韓興の後を継いだ立場なら、なんで彼らの最終的な爵位である「按道侯」ではなく、失ったはずの「龍頟侯」になっているんだろうか?



龍頟
元朔五年四月丁未、侯(韓)譊以都尉撃匈奴得王、侯、十二年、元鼎五年坐酎金免。
按道
元封元年五月己卯、愍侯(韓)説以横海將軍擊東越、侯、十九年、為衛太子所殺。
延和三年侯興嗣、四年、坐祝詛上要斬。
後元元年、侯曾以興弟紹封龍頟、三十一年薨。
(『漢書』巻十六、高恵高后文功臣表)

実は『漢書』高恵高后文功臣表では「龍頟侯」と「按道侯」が別人であるかのように書かれているのだが、確かに、大逆罪で取り潰しになった「按道侯」家ではなく、あくまでも爵位取り上げだけで済んでいた別の家である「龍頟侯」家の復興なのだ、と考えた方が辻褄が合うような気もしないでもない。




結論としてはよくわからん。